ふくべ その弐 赤絵瓢徳利 九谷芙蓉手染付盃
いまァ世の中変はッちまったからなくなったが、銀座の一丁目の表通りに陶器屋があった。もふ鳥渡(ちょっと)北へ寄りァ、京橋。ゑど(江戸)ン比(頃)ハ銀座とも新両替町とも言った一丁目でネ、そこにその見世ァありやしたネ、あっしのうろ覚えでやすが、屋号は確か、小柳ッとかッてネ。
そこで見つけたンがこの赤絵の徳利でさァ。ご覧の通りの瓢形。この見世ァ場所柄、銀座界隈の路地や新道(しんみち)辺りの小料理屋あたり目当ての品揃ひだったンぢァねえですかい。鳥渡小粋な器が多ござんしたゼ。そふ言やァ裏にァ丸た新道(じんみち)なんかござんして、小見世が夜になるト赤提灯なんぞ灯しておもやしたものねェ
ご存じのとほり、料理屋呑み屋ハ徳利の数でお足取りやすんでネ。三合もへえるよふなお預け徳利ァ置きやせん。デこの赤絵の瓢もえらく小粒もんでやすヨ。五、六勺も入れりァもう一杯でネ。客は呑み足りなくッて、女将もう一本つけてくんなッてことになって、商売になるッてェ十露盤(そろばん)ヨ。
あっしァ呑ン兵衛ぢァねへから、このくれえが丁度いゝ。飯の前にも寝酒にも、心安く使える徳利ッてことで、モウかれこれ廿年の余も使っておりやすンで。価(あたい)ハ安かったねェ。いまもって忘れねェよ。贋南鐐(なんりょう)たったの七めえヨ。七百円サ。こんないゝ買いもんハあとにも先にもしたこたァねへゼ、ほんと。
モ一つ、こいつゥ離せねへわけがありやしてネ。酒ェ注ぐときに、とく\/ッていゝ音(ね)で泣きやすのサ。こりァ鳴くッて文ン字ぢャ感じでねへのよ、やっぱり泣いてくれるのヨ。それがたまらねへのサ。
デ、その音聴きたさに、また夕飯ンときにいっぺえッてなる毎夜の繰り返しサ。
この徳利のお相手は、脇ィ並べた染付(そめつけ)。ひっくりへえすと高台ン中に九谷ッてへえっておりやす。青九谷ッてのがあるそうだが、こいつァそうなんかねェ。あっしァよく分かンねへが。
あっしの祖父(じい)さんの遺品でネ。芙蓉手ッてあっしァ勝手に呼んでおりやすが、内側の底に真上から見た芙蓉の花が咲いておりやす。あっしの手へ渡ってきたときにァモウ縁がちょいと欠けておりやしてネ。幸い上野の美術学校の保存技術課ッてとこの先生に伝(つて)ができやしたもんで、金繕(きんつくろい)してもらって使っておりやしだが、なんだか運のわりい盃でねェ。落して割られ、また金繕して戻ってくるッてへトなんかの恨みかまた落とされて割れやしてネ。なんだかんだで三、四(し)遍繕いやしたヨ。最後ンときァ仕上がって戻って来た姿見たら、切られ与佐みてへであんまり痛ましくッてしばらく手にとれやせんでしたゼ。そいでも祖父さんの形見ヨ。使ってやんなきャ可哀相でならねへ。
それにこいつ、只もんぢァござんせんゼ。守貞満稿読んでおりやすト幕末に流行った盃の形が絵に書いてある。そっくりヨ。大きさがこいつァ、その一回りちいさへだけ。
祖父さんは幕末だか明治のしょっぱなの生まれだからネ。いまどき、この形の盃、あっしァ一遍も他で見たことねへのサ。冥土で祖父さんに追いついたら、孫のあっしが大切に使わせてもらいやしたッて伝えなくッちァいけねへ。そうしたいわく背負った盃サ。
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