【番外】切られ與三手切金(きられよそうてぎれのかね)
けふは右腕ェ一寸の余も切られちまいやして。縫った針かず、五針六針。縫った黒糸色気ェねえが、しっか止めて血のおさえ。
明六ツまぢァ早くねえが、あっしとしちァ覚悟の早起き、夜の闇がまだちったァ薄まって残ってるような時刻に、目覚ましの煎茶に梅干の果肉のすっぺえとこで無理やり目ェ明けさせ、朝の町ィくりだし、いの一番で手術室へ行ったッてわけヨ。着替えの部屋で、看護師の若衆(わかいし)さんがついて面倒見てくだすったンだが、いつもの伝の着物姿のあっしィ見て、「わたしも着物着たいンですよなんてとこから、茶道やってるッてえ咄がでやしてネ。まだ一年ほどなんだがッてえんで、いっち楽しい比(頃)でやすねえなんて咄ィはずみやしてネ。あっしァかれこれ十年してたんだが、長年の透析のためかだん\/足腰背中の筋肉が落ちて、釜や水指の上げ下げどころか、正座してるだけで背骨のつながりが痛んで横にならなきァいらンねえ始末。これぢァ茶にならねえトあきらめ振った茶筅の別れ[※1]。こんな茶咄ィ手術室でゞきるなんてのも、けっこう乙でいゝもんぢァありやせんかい。
去年の春三月ッ比にも右手ァ手首に刃物入れてるンだが、その跡(後)、血管がつぶれちまって二遍細い針金ェ血管中に入れてちッさな風船ふくらませて、血管をむりやり広げるなんて痛い芸当をやったンだが、またすぐにへたッちまッたンで、今度の切り裂きッて仕儀ヨ。
左手にァもうやり場のねえほど刃物がへえっておりやして、かずえて見ると、なんと大小合わせて六个(こ[※2])。楊枝ッくれえのぶッとい針ィ毎週\/最低でも六本ハ刺しておりやして、そんな芸当をかれこれ十五年。おぎァと生れた赤ん坊もいまぢァ生意気ざかりの高校生になろうッて歳月(としつき)、こんな刃物針三昧の修羅の日々。そんなこんなで針の跡となめれねえほどのいっぱし跡だらけ。いつもおんなじ辺りィ刺しつゞけンでそれががつながり、切られの傷のように見えるッて寸法サ。
人さまの目にふれることのねえ腹にァ、大層な向ひ傷が数ゥありやしてネ。まず下ッぱらの右にァ自慢にもなんねえ小さなちょン傷。こいつァまだ高校の二才のときに盲腸になっての手術跡。てえしたもんぢァありやせん。真ん中、胃の腑の下から臍ォよけて真ッつぐその下めいっぺえまで、すっぱりと割腹のメスの跡。こいつァある朝、急に大腸に孔ァ開いて腹膜炎起こしてのたうち回り、危篤の宣告。孔あいちまった大腸切り取り、左のどてッぱらに一寸径ぐれえの風穴あけて外に出し。そのまンまで六ヶ月。待ってまた割腹。切り離した大腸をチタンのホチキスでパチ\/ッて止め、また腹ン中に放り込んだンてわけヨ。そんな騒動のときだろう。右ッぱらにもちっせえ切傷がありやすねえ。跡ァ目だネ。左目、こいつも刃物傷ヨ、ちょんと切ってそッからレンズ入れておりやすンだが、この傷ハてめえでも見えやせんナ。なんだかんだもぜんぶひッくるめりァ十と四(し)箇所。與三郎にァおよびもつかねえが、いっぱしの向こう疵のぢゞいッ二ツ名になりそうだゼ。そいでけふの手切りの手術代ヨ。帳場の姐さんに、お代はおいくらお支払いさせていたゞきやしたらよろしいンでトお訊ねすりァ、喜三二さんハ華の身障第一級、透析の御身、お代はいりやせんヨのお情けあるお詞。こいつァ春から縁起がいゝゼ。ありがた山(やま)の賽のふり目。めぐる月日になんか特別でっけえいゝことが待ち受けてゐるかもしれやせんなァ。こないだの観音さまの拾い福豆がもう効いたか。上々大吉。幾久しュお頼み申しやすゼ、観音さんよォ。
【附(つけた)り】
[※1]振った茶筅の別れ。振ったと茶筅は縁語。振ったと別れは縁語。
[※2]六个(こ)。个の字の草書体がヶ。个は音読みで、か、または、こと読む。そこから草書体のヶを書いてコ(個)と読み、さらに個の字を当てるようになんた。一カ月のカも、かつてはヶと表記してカと読んだものが、そのままカの字を当てるものとなった。
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