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2009年8月23日 (日)

巻の二 徒遊三囲向島百花園(かちあそびめぐるむかふじまひヤくくワえん)

 暑い\/と口々に、汗拭き入る言問団子。さいわい見世はひンやりと、冷房効いたありがた加減。さゝどうぞトだされた熱い茶の旨いこと。砂が水吸うよふに、五臓六腑にしみわたる。さてご注文。一同三色の団子盛合せの揃い踏み。こいつがけふのお目当てヨ。都鳥墨釉でさらりと書いた楽焼の、皿に白茶黄の三種団子。なんど見てもいゝ景色だねェ。白は白あんで、茶は小豆の漉あんで、白玉を芯に外側をくるみ、黄は中外逆。白あんをくちなしで染めたしん子でつつんだ、曲(きょく)の品。三個みんなおんなじぢやァ芸がありやせんもんねェ。此処で一休みふた休み、汗を乾かし、目指すは鳩の町。大通りから、ひょいと小路ィへえりゃァそこがもう鳩の町の跡。こゝがですかいト先達ッつァんに問やァヘイ此処で。見上げる町名表示にやァ、まッごうことなく、括弧付きで小さく(鳩の町)。かれこれ五十年ばかしのめえ、小路の真ン中下水が流れ、客は見世沿いに歩く仕掛け。両脇の見世はそれとわかる桃色緑の陶板(タイル)張り。戸にやァ妖し紫の、板ビードロ嵌めて一目瞭然の造作はいまや何処のごみと消え、立ち並ぶはありふれた町の風景。面影は道の細さのみ。夢さめ、狐につまゝれたるが如し。

   色もあせ たゞの人住む 町になり

 商屋(あきないや)らしき家ひとつもなき中に、運よく水茶屋こぐまあり。一休みと一同でなだれこむト折よく、ひよこ豆の天竺飯(カレー)の用意あり。こいつァ渡りに舟ト腹ァつくってるとこに、肝煎姐さんのご登場。一同やんやの拍手でお出迎え。やっぱり肝煎がいねぢやァ盛り上がりがもひとつかけていけねえや。姐さんのけふの仕掛けハ扇柄水色絽小紋、帯は絽の桃色地に白銀(しろがね)の蝶型、半衿は桔梗。たっぷりの黒髪髱(たぼ)ゆたかに結いまとめ挿す夏かんざしは柄の韻ヲふんで桔梗に蝶。足袋にも帯と合わせて淡薄桃色の柄をとばし、草履はあかるく白銀色。全身いちもくすりゃァ涼しげな極淡い水色の仕上げ。姐さん、やっぱり着物の着こなしァ玄人だねェ、惚れ\/いたしやすゼ。
 さて、腹もできた。鳥渡(ちょいと)風流しに、百花園まで往きやしょうか。何処までついていけるものか、てめえでも皆目検討のつかなかったあっしだが、なんとか往けそうト杖の柄しっかと握りなおし、お供しやしょう百花園。西日背に受け、風流旅烏。どこをどふ歩いたか。いまぢやァ二度と歩けぬ、小路づたい。やがてあらわる木立の一角。檜皮葺(ひわだぶき)の中門くゞりゃァ、江戸文人つどいの場。あっしゃァ七八年も向島の隣に住んでいながら、餓鬼のため、いっぺんも来たことがねへ。ぜひと永年願った処。いまやっとたどりつきやした。肝煎姐さん、先達ッつァん、足弱のあっしに合わせてあゆんでおくんなすったご一同にお礼申しやす。ありがたふおざりィやす。むかしァ梅屋敷とも呼ばれてゐたとか。中門のさきにやァ抱えてあまる梅の老木。梅のみあげる大木なンぞ見たことねェ。実がなっても手が届かねへ。こいで知れるぜ、梅の実ほしさで植えたぢやねェッて根性がネ。そこが文人ヨ。そうこなくちゃ洒落になんねへもんナ。実ィ採って梅干あきないしてたよふぢやァ賤しくっていけねェ。
 野点でおなじみの日除け大傘の下、緋毛氈の床几が一つ。さァ、きーさん真ン中にト肝煎京姐さんにうながされ、腰を下ろすと右にりえ姐さん、左ァ京姐さん、そも隣ァloco姐さん。両手に花どころぢやァねェ。両手に三ツ花。こいつァでけえ罰があたんなきやァいゝだが、ぢゞいのあっしにやァ空恐ろしいやふな仕合せヨ。百年の運がいっぺんに咲いちまったようたゼ。
 浮かれて歩みやァこもれびの中、どこからきたか水色揚羽二匹。離れては寄り、寄っては離れ、雌雄が空(くう)に綾なす恋の舞。肝煎姐さんの帯柄簪柄が呼んだか、えにしの蝶々。夏の仕舞いの恋の一幕。
 園内を一巡して、もふひと歩き。つぎに目指すは玉ノ井の旧跡。色町と知られてゐるが、この地名、きっと名水の涌く地だったものと偲ばれる。西日を背に小路たどれば鉄道の駅。もと玉ノ井駅。駅前の米式肉挟みパン屋の二階で冷たいもので喉をうるおして一休み。扨(さて)ト一同つらなり、先達ッつァんにこゝが戦前の、あっちの道筋が戦後の玉ノ井色街と説明受け、その思いで見ればたしかに小さき西洋酒場などが、無理に挟んだよふにあったりし、形(かた)は変はれどその面影ありやなしやの風情なり。

  玉ノ井ハ 抜けられますト 客を呼び

 近くの禅寺に残る大正街道ト彫った見上げる立派な石碑を見、さらにたどって空襲で焼けのこった玉ノ井楼主の旧居を眺め、けふの徒あすびを終える。

 江戸を発ち 昭和をたずね いまに来る      喜老

2009年8月20日 (木)

昨日去夏今日来秋(なつさりてけふあききたりぬ)

 けふ、明治からこっち、すっかりお馴染みの西洋暦の8月20日。千年ぐれえも日本で使ってる太陰太陽暦、天保暦とも旧暦とも言ふ日本向きのそれによりゃ、夏ハきのふで終り、けふから秋だッてんだが、それにしても暑いねエ。その暑さン中、だれに頼まれたわけでもねえのに、お江戸を往ったり来たりさんざッぱら歩きまわッちまったゼ。
  振出が、柳ばし。大黒屋で昼の天丼。あいかわらずのひっそりした佇まいト気遣い、味の確かさ。あっしゃァ好きだねェ。ごちトでりゃァまえの小松屋で、けふハ手むきあさりトしらすと山椒の佃煮。とって返して西日暮里の駅ン中で、羽二重団子。千駄木へまっわて団子坂下から、三崎(さんさき)坂ァ雪駄引きずり汗流しえッちらおッちら上って行って、或るぎやらりィ。こんちワと訪ねりゃァ、けふはお休み。オッとこいつァしくじった。電話かけりゃァよかったカ。じつァそこなお茶室を見せていたゞかうとの魂胆でおたずねいたしやした次第でしてト。見世の中にゃァ躪口付の壁ごと脇ィ動いて、二畳の囲いがひらける趣向。家の居間の中にこの機関(からくり)で小間をつくったらみごとな面白さ。こいつァ平賀源内鶴屋南北もかんがえつくめェ。お休みンとこ、鳥渡(ちょいと)拝見させていたゞき、その数寄屋の細工に感心。ありがたふおざりィやしたト天窓(あたま)ァ下げ、三崎坂日陰拾いでとぼとぼ戻りゃ半ばの寺で、円朝所縁の幽霊画展。暑さしのぎにもってこいかと思ったが、幽霊は向ふから来るくるものこっちからのこのこ往くもんじゃァあるめえト跡にし、菊見煎餅買い込み、団子坂下四ツ辻の水茶屋で一息ついたけふのお粗末。

2009年8月19日 (水)

巻の一 徒遊三囲向島百花園(かちあそびめぐるむかふじまひヤくくワえん)

 みんなで行こうよゥッてェ肝煎姐さんのひと声で。ついこねえだの鳥渡(ちょいと)秋まがいの乾いた日。七十六間(しッちゅうろっけん)吾妻橋、渡って松平越前守さま御下屋敷、いまぢやァ隅田の奉行所に衣更。そこに集まりし、老若男女。きれいどころがお三方、真ッ先にお見えの姐さんハ暑さ見越しての肩だし洋装、焦茶の色仕立てが渋い色。浴衣の姐さんお一人ハ白地の絽木綿。目にも涼しく、鯉の滝のぼりの藍染。白の帯にハ秋風に舞う紅葉の葉数枚、残る暑さに一陣の、涼風呼びこむお仕立て。草履の赤が効かせどこ。もうお一方のきれいどこ、お浴衣ハ目にも爽やか真ッ白地。てんてんトあしらった鬼灯(ほおずき)柄ハ縁台庭先の夕涼み、そんな景を思はせる涼しの柄。みなさんご趣味がいゝねェ。男ざかりがお三人。若旦那のお浴衣ハ黒染乱れ細縞白抜きの渋好み。〆る帯ハ鼠の献上博多、貝の口。足元ァ焼桐下駄、素足で決めた鯔背(いなせ)の形(なり)。洋装の男衆(をとこしゅ)は、お一人ハ時花(はやり)の黒仕掛け。もう一方(ひとかた)は唐渡りばせを果実つなぎ紋柄アロハで夏真ッツァかりのご趣向ヨ。加えていたゞくあっしハ暑さ除けにと越後上布の枇杷色染、帯ハ紫地にところ処銀糸緑の縞模様、絹絽の夏帯、伊達の片挟み浪人気分。その腰に、ぶち込んだハ女持(めもち)の喜世留(きせる)筒。ぶら下がりは藍染め仕立ての多葉粉(たばこ)入れ。銅(あか)の真ン丸留め金具。雨に煙る蔵前大川の筏流しの図。筏師のかぶる蓑は銀象嵌、笠は真鍮、錺(かざり)職人の腕の見せどこの極小細工。手にハかれこれ廿年、使い込んだ勝色(かちいろ)合財袋。柄ハ勝虫ト武家や勇(いさみ)の兄哥(あにィ)がお喜びのとんぼ散らした印傳仕上げ。秋の先取りでちッたァ涼しさ感じていたゞけやしょう。けふも右手にァ古相棒の黒檀杖。南鐐(なんりょう)の握りしっかと掴み、こいつが頼りの外歩き。
  奴のあっしなれど、杖突き老体なれば、露払にも箱持の役にもたゝねへやくたいなれど、どん尻ヲあい勤めやしょうト空(から)元気。どこまで皆さまがたについて往けるか。こゝハ出たとこ勝負の徒遊。行き倒れたそのときハ辻駕篭ひろって、勝手ながらのご無礼山(さん)。そこまでお供ヲさせておくんなせェ。これで面子(めんつ)がお揃いト音頭とるのハけふの先達(せんだッつ)ァん。地の生れ。若いながらも気遣いおさおさおこたりなく、明治の比(頃)のこの地の絵図。隠しに忍ばせての道案内。肝煎姐さんハ先で出会うお約束、そいじゃァぶらぶら往きやしょう。
 さて振出ハすぐに渡る源兵ヱ橋。架かる掘割のその先は、矩(かね)に曲がって味江戸一番とその名も高き蜆で、かつてしれた業平橋。いまァどうなってゐることやら。
 源兵ヱを渡れば水戸さま御下屋敷。そこがいまでは、知らねえ人もまさかハゐねへ隅田公園。そろそろ散りかけ桜の葉陰ひろいつゝ、墨堤をふらふらとさかのぼりゃァ、右手にあらわる牛嶋神社。のんびりとお昼寝姿の牛さんヲなぜりゃァ効験ありと、言はれて総身なぜるも恥ずかしや。そっとお腰に手をおいて、なまんだぶとハとんだお門ちがいのお念仏。これぢやァご利益あるはずァねへわな。
 信心ついでトいちゃァ罰ィあたるが、先にならぶやふに建つ三囲(みめぐり)神社。江戸ッ側からながめりゃァ浅草川越しに土手の上、ちょこんと覗く鳥居の天窓(あたま)。その眺めが絵にもかゝれた名所の神社。名高いのぞき鳥居はのこちゃァゐるが、ご維新後の無粋もん、見せねへ魂胆か、鼻ッつァきに首都高々架の足ィおッたてやがった。まッたく野暮は始末におえねへ。絵になんねへことしておくれだゼ。
 お稲荷さまだけに、両脇で番をするハ狛犬ならぬこんこんさん。それもにっこり笑顔の愛想狐。寄進ハご存じ越後屋さん。さすがの商売上手。まいどありィの笑みにやァ負けやすゼ。
 そッからまわる見番通り。やはりこゝハ名だたる向島。そこかしこにならぶ風情の料亭。見番の立派な建物。まだまだすたれちゃァおりやせん。
 汗を拭き拭き日陰ひろって往きやァ、お待ちかねの言問団子。鳥渡(ちょいと)休んで、いきやしょか。
(つづく)

2009年3月21日 (土)

【番外】東京ふた色

 地下鉄銀座線の上野で浅草行を待っておりやしてネ。待つほどもなく電車がへえってきやしたのヨ。ところがなんだゼ。上野止りだッてえのヨ。けちくせえことするぢァねえかい。跡(後)三ツ走りァ稲荷町、田原町で終点の浅草ヨ。乗ってた客がぞろ\/降りてくるわなァ。待ってた客はあっしの後(うしろ)にもずらりヨ。そしたら降りてきた客が、いっちめえ(前)のあっしの横にそのまゝ立ッちまうのサ。あっしの後の子ずれの姐さんが「東京の人ハねえッて文句つぶやいたゼ。だもんで、あっしァめえに立ッちまった婆さんの肩ァ扇子でちょい\/と叩いて、「みンな並んでおりやすんで、後についておくんなさいなッてネ。
 文句言った姐さんもいけねえのヨ。足元にァ三列で並ぶように三本の線が引いてあるのに、そのお方ァあっしの真後に並ンぢまってるから、二列が空いたまゝなんだ。だから降りてきた客がそこに立ッちまふ。そいで、姐さんにめえに詰めて横に並びなせえッておせえたッてわけヨ。で、姐さんのさっきの詞ァ江戸東京の町ッ子としちァ聞き流しにァできねえンで、言ったのヨ。「東京にァ、東京の町ッ子とたゞ東京にゐるだけの人がおりやすのさ。姐さんは着流しのあっしの姿ァ見て、「東京の方ですよねえ、どうみても。「へい、さい(左様)で。 そいで、「東京にァ江戸の比(頃)から、三代生れ育たねえと江戸ッ子にァなれねえッて詞ァありやして。こりァ町ッ子ッてえことでしてネ。赤の他人さまに自然と気遣いできるようにならねえと町ッ子たァ言へねえンですワ。ですから、初代がもの見る目がなくって田舎と人が多くて肩ァぶつかり合ふような町の暮らしとの違いに勘づかねえと、何代江戸東京にゐても町ッ子になれねえわけでしてネ。末代まで恥ィつゞくし、周りは迷惑するッてえわけでして。きのふ(昨日)けふ(今日)東京へ出てきたばかしの人もそれとおンなじ。東京にァお江戸からつゞいた江戸しぐさッてえもんがありやすが、それだけ守ってりァいゝかッてえとそうぢァねえ。要はさっき言った、赤の他人さまへの気遣いでさァ。それがごく自然にできリァ今朝出てきたゞけでも、もふ町ッ子にれる。難しいことぢァありやせんトね。

2009年1月20日 (火)

観音慈悲大手焙(かんおんじひのおほてあぶり)

 ありァ新暦(あらごよみ)の大晦(おほつごもり)ちょいめえの暮六ツ近く。途中で道草喰い、観音さまのお参りにァ日はゝるか西にそびえる忍ヶ丘[※]の向ふに落ち、宝蔵門も五重塔も黒い固まり黙(だんま)りトあいなって、広い境内もまばらの人影。いつも取り巻く人で割り込むこともまゝならねへ本堂めえの大香炉。たった二三人が手で線香のけむ(煙)をすくい躰にすりこみ、病気平癒のご利益目当て。あっしも並んでけむを両手ですくっていまさらよくなる筈もねえ空ッぽ天窓(あたま。頭)にすり込むが、こいつァきっと観音さまもお困りサ。あの莫迦の願いは、薄くなった天窓の手直しか、はたまた錆び付いて廻りようもねえ天窓のからくり細工の再生願いか。どっち転んでも手直しなんぞでらちのあくどこぢァあるめえものを、素人の願いは欲が深くて往生すらァ、あたいハいまの望みは見てないことにしておこうッてことになるンでやしょうねェ。そんなあっしの隣の先客、迫る宵闇に面も風体も判らぬながら、冗談めかして誰に言ふでもなしの大独り言、「三円、財布ン中ァ三円しかねェや」の威勢のよさハやけのヤン八。この世はご縁と言ふけれど、参縁あれば、無縁よりも濃いつながり。それが証拠に差し渡し三尺の余ハあろうッて大香炉。信心者が百金払って線香ご寄付。勝手\/に灰に差し込んだ線香の燃え残りがそこかしこにいぶり、こいつァどでけえ手焙(てあぶり)代わりにもっけのさいわい。棺桶にァ足からへえるたァ聞いちァゐるが、老いのあっしの指先ァ手が冷たくて我慢がなんねえ。三円のとッつあんの横で手焙仲間にさせてもらッてしばし暖をとり。ぢァあばよット本堂へ三四の十二歩。三円の声が耳にくッついて離れねへ。この寒空の下、腹も空(す)こうッて暮六ツ時ぶん。あのとッつあん、三円ぢァ飯どころか缶の茶も呑めぬ。それを思やァ、苦しみ身とハいえどもけえる屋根のあるあっしァまだ果報の者。明日は我が身と思えば足は自然とゞまって、紙入より取りいだすハ野口博士の肖像画いちめえ。素早く畳んでとってけえし、「親爺さんヨ、晩飯の足しにしてくんなト人に見られるようにそっと手に握らせりァ、三円親爺なにごとゾと驚けど、すぐに気づきて「旦那、どうもあり、の先を言わせず唇に指一本立てゝ内緒\/の身振り手振り。一葉姐さんのご真影、はたまた福沢御大の肖像画いちめえ出せぬてめえの甲斐性のなさが恥ずかしく、逃げて駆け上がるご本堂の階(きざはし)。偽銀百金賽銭函にぽんと投げ、けふもお参りさせていたゞきやした。ありがたふおざりィやす、の一礼して踵(きびす)をけえす。観音さまの大香炉ハ日落ちて寒気が迫りァ家のねへ、食い物のねへ、酒で躰温めることのできねえお方たちが、一時の暖をとる手焙になすってゐるッてことをあっしァその宵初めて知ったお粗末ヨ。観音さま信心で供えた線香の束がそんな形で人の役に立つ。これこそ観音さまの慈悲ッてえもんぢァござんせんかねェ。そんときのあっしの観音さまへの天窓の下げ方ァいまゝでとはちょいと違ってきたように思ひやしたネ。願いごとなんぞするのハもっての他。あゝけふもお参りさせていたゞけましてありがたふおざりィやす。神仏ッてのハこの心持ちなんぢァねえンですかねえ。

【附(つけた)り】
[※]忍ヶ丘。しのぶがおか。上野の山の正しい名称。その下にある池が、不忍池(しのばずのいけ)。

2008年4月13日 (日)

陽春出会華御七(さかりのはるであいのはなのおしッつあん)

 ほんにことしのあっしァどうなってンのかねェ。また\/ひょっこり出会で七人目ヨ。花魁道中があるッてんで、浅草へ出端(でば)ッてきやして、軽く腹ァつくって伝法通り。ぱッと咲いたか八重桜、婀娜(あだ)な着物姿の年増が前を行くぢァござんせいかい。「おやァ、船遊山でご一緒したま文字の姐さんぢァありやせんかい。どちらへッて声をおかけいたしやしたら、やっぱり道中見物。浅草寺の裏でやしたよねェト処ォ確かめやすと、懐から絵図ゥお出しになって「浅草八丁目から千束への通りでございましょうッてのご返事。そこはどうやら昔の日本堤。こりァいけねへ、こっちァ足弱。とてもそこまで伸ばせやせん。ものゝ一丁も行かねへ弁天さまのめえ、そいぢァあっしァお参りいたしやすんでト右と左の泣き別れ。贋銀いちめえチャリンと投げ入れ、ど天窓(あたま)ぺこりと下げて、あれやらこれやら一束(いっそく)ほどもお頼み申し、釣ァいらねへ取ッときなッて弁天さんを跡(後)にして、廻る参りハ観音さん。こゝでもお布施の銀一めえにァ盛りきれねへほどのお頼みし、汗ばむ陽気ン中、をとこ(男)着物のちどりやへ。半襦袢を買いに寄り、ついでに鮫小紋の長着ィ素見(ひやかし)、ふら\/たどる洋蜜柑通り、実正(ほんと)名ハおれんじ通り。なんてこの名がついたか知らねへが、江戸もんにァ鳥渡(ちょいと)馴染みにくい名ぢャござんせんかい。
 あっしも馬廉(ばか)の一ツ覚え。浅草で八ツ時分ッて言やァ並木の藪。畳ィ上がって、いつもの伝でぬる燗を一本。蕎麦の実の練味噌で盃傾け、樽酒の香りィ楽しむ。トそこへあっしとおっつかっつの爺さん二人連れ、「お邪魔いたしやすヨのご挨拶での相席。こうした気楽な挨拶をできる人が江戸の町ッ子ヨ。これが身につくまぢァ三代かゝると江戸ぢァ言ひやしたねェ。江戸で三代生れ育たなければ江戸ッ子にァなれねへッてのがそれでやしょう。見ず知らずの赤の他人さんが気軽に詞ァ交わす。これがお江戸のいゝとこヨ。知らん顔の半兵衛、ぶすッと仏頂面の不調法ハお江戸ぢァご法度サ。
 一本仕上げてざる一めえ、手繰ってふらりと外ィ出りァ、陽は早傾いて「さて、けえりァどの道たどろふか。

2007年6月28日 (木)

宵深川浮名川竹(よいのふかゞはうきなのかはたけ)(※1)

 長屋の角ォ曲がると、干鰯(ほしか[※2])魚油(ぎょゆ[※3])の招牌(かんぱん[※4])、瓦葺きの廂(ひさし)に掲げた油問屋(あぶらどひや)。こゝは深川佐賀町油堀(※5)下ノ橋辺(へん)。川風が御納戸茶の小千谷縮の裾を吹き上げる。掘割の前にァ馴染みの船宿相模屋。お誂へ向きに桟橋にハお目当ての猪牙舟(ちょき)一艘。
  喜佐次「コヲ(※6)女将、堀(※7)まで猪牙出しておくんな。女将のおけい「アラ旦那、お出でなさいまし。上がって鳥渡(ちょっと)待ってゝおくんなさいナ。いま船頭が出払ってましてね。喜「出払ってるッて、舟ェあるぢャねへかい。女将「いやサ、舟はあるンですがネ、手の方がたんなくて。喜「徳さんはゐねへのかい。女将「あい、徳さんハいま、その堀までお初姐さんを迎えにネ。喜「そいぢァ熊公がゐるだらう。女将「腹痛(はらいた)でねェ。喜「またかい。そいつァ前みてへに、百両手に入れた夢見てゝめえの両金握り、痛さに飛び起きた咄(はなし[※8])ぢァねへのかい。女将「いやですよ、旦那。熊だってそう\/おんなじ手ハ使いませんヨ。こんどはどうやら実正(ほんと)らしいンで。ゆんべ屋台の天麩羅でよしァいゝのに蛤ばっかし五本も喰ったらしいンですヨ。あいつァほんに意地汚い間抜けで、困ッちまいますよ。喜「しょうがねへ。上がって待つか。女将、一本つけておくんな。女将「ハイ、ただいま。
 跡(後)から、三輪髷(みつわまげ[※9])の女がひとり。鳥の子の地によろけ縞、鯨帯(※10)を猫じゃらし(※11)に〆(しめ)、ひょいと右肩で挨拶して入って来、「ごめんなさいまし。女将「オヤ、於喜乃(おきの)姐さん、お早いお戻りで。もふご用はお済みかい。喜乃「なにさネ、用ッたって、おッかさんの見舞だから。女将「アラ、おッかさん、お加減悪いのかへ。喜乃「先月辺りからゝしいンだけどネ。旦那の耳ィ入るとわりいッて遠慮してネ。ほんに水臭いヨ。女将「そんなもんさネ、親ッてへのは。気ィ活かしてまた見舞ってやったら喜びやしょうヨ。喜乃「そうだねェ。そうしますヨ。旦那もいまァ上方へ行ってお留守だしネ。
  女将ハ咄ながら、長火鉢の銅壺から銚釐(ちろり)を引き出し、指で底の燗をみ、「ハイお待ちどうさま。燗がつきましたヨ。ト喜佐次の前の猫板(※12)へ出す。喜「姐さんも、一緒にイッペどうだい。喜乃「あたしもご相伴していゝンですかい。喜「どうせ、船頭が戻るまぢァ舟は出ねへヨ。喜乃「そいぢァ鳥渡お供させていたゞきましょうかねェ。女将「そう、姐さんも、そうしなさいナ。あたしァ堀の取ッかゝりまで見てきましょう。ト女将は下駄を突っかけて出て行く。
  喜「サいっぺえ付き合いなせへ。どうせ舟は一艘、せんど(船頭)は一人だ。喜乃「アレ、船頭さん二階に居ないのかへ。喜「そうなんで、いま徳さんが戻るから、それで出るとこダ。姐さんハどちらまで行きなさる。喜乃「向島サ。喜「黒板塀かい。喜乃「まァネ、嫌な旦那だヨ。喜「形(なり)が白(※13)ぢァねへヨ。喜乃「ふゝゝ。喜「向島なら、真向かいサ。あっしァ堀で上がるから、行きに降ろして行きやしょう。喜乃「オヤ、旦那粋なとこへ。喜「なァに、娑婆の付き合いサ。喜乃「オヤ\/。ト笑いながら、盃を一気に干し、「ハイご返杯。喜「こいつァいゝ呑みッぷりダ。嬉しいねェ。盃をとったりやったり、呑み交わす。そのうち表が暗くなり、サッと雨の走る音。喜乃「アレ、雨が。喜「やなときに降って来やがったが、しんぺえねえゼ、徳が漕ぎ戻って来るンは屋根舟(※14)ダ。そいつで行きやしょう。濡れずに済みやす。
  雨は風を呼び、土間へ吹き込んで、「ヱイ、しょうのねへ雨だゼ。喜佐治立って戸口から空を仰ぎ、「空ァ真ッ黒だゼ。こいつァしばらく止みそうもねへ。ト引戸を〆る。喜乃「困ったねェ。喜「お急ぎかい。喜乃「寮にァ女中の小娘一人残してるからネ。喜「マじたばたしても雨ァ止まねへ。呑んで待つにかぎらァ。トまた注ぐ。喜乃「アレ、そんなに注いだら酔ッちまうヨ。喜「酔うなら酔いなせへ。舟で寮までお連れしまさァ。喜乃「ほゝゝゝ。
  暗さを増した八畳間、長火鉢の銅壺の炭ばかりが赤々と、二人の脇の薄明かり。喜乃「ほんに、ト言ったその弾み、雷(らい)が轟き、喜乃「アレ、恐ひ。辺りに響く轟音に、喜「ヤどっかへ落ちたゼ。ト言ふ間もなしの稲光。その轟音に耳をふさぎ、喜乃「あッ。と叫んで身を伏せる。投げた裾から緋縮緬、光に眩しい白い足。
  丁度その比、首尾の松(※15)、お初を乗せた徳の舟。舫(もや)ッて雨を忍べれど、屋根を打つ雨足に、初「徳さん、中ァへえんなヨ。徳「いやァ、せんどが姐さんのゐる中ァへえるわけにァいきやせんゼ。初「誰も見ちァいませんヨ。そこぢァ濡れるばっかしだもの。見てるのは川の魚くらいのもんさネ。徳「そうですかい。そいぢァ、ちょっと入れていたゞきやしょうかネ。初「あゝ、そうおしナ。徳さん、お酒、少し残ッてるかい。徳「エヽ、いま(燗を)おつけしますヨ。初「すまないねェ。徳「なァに。鳥渡お待ちを。初「あたしァ驚いたのサ。徳さんが船頭になったッて聞いてネ。あんな綺麗な若旦那が。徳「勘当されちまいやしてネ。初「だからサ、いっそう驚いたのサ。あたしァねェ、お酌の時に若旦那だった徳さんを見てネ、一目で。徳「一目で、初「先を言わせるンぢァないヨ、この人ハ。トそこまでお初が言ったとき、川面を走った雷の轟き、はッと息を呑んだお初は、徳の右手へすがりつき、初「アレっ、恐ひ。闇の水面(みなも)を昼と紛う明るさに、一瞬照らした稲光、崩れた裾から覗く足。
 女将「鳥渡、旦那、起きてくださいナ。その声が次第に遠く変わって男声、「お客さん、閉館の時間でして。肩を揺すられ気がつけば、こゝは深川江戸資料館(※16)、船宿相模屋の八畳間。
  お初徳兵衛(※17)馴れ初めの一節、横読みのこれにて幕。

(※1)浮名川竹(うきなのかはたけ)。浮名と浮き川竹を懸けた題名。浮き川竹は、水を吸って水面に釣の浮子(うき)のように立って浮き、潮の上げ下げに揺られて居所を定めぬ様子を人の人生にたとえて言った言葉。浮きは鬱きに懸かる。
(※2)干鰯。脂を絞った後の鰯を干し、肥料用としたもの。深川辺りの油問屋では、銚子から江戸湾を通らず川伝いに運び入れ、それを上方へ送っていた。金肥。
(※3])魚油。鰯などの魚から絞った油。臭気が酷かったが値が安かったため、一般町人の灯などに用いられた。
(※4)招牌。看板のこと。江戸の百科事典と呼ばれる喜田川著『守貞満稿』では、この字を当てている。
(※5)深川佐賀町油堀。この川の上を現在は首都高速道路9号線が通っている。下ノ橋は隅田川から入って最初の橋。
(※6)コヲ。現代で呼びかけに言われる「オイ」を江戸の頃は、「コヲ」または「コウ」と表記した。
(※7)堀。山谷堀のこと。そこで舟から上がり、日本堤をたどって吉原へ行った。
(※8])落語「夢金」の噺。志ん生、圓生が高座にかけた。
(※9)三輪髷。江戸末期、女師匠や妾が多く結った。髻(もとどり)を三つに分け、二つを左右で輪にし、残りを真ん中で輪にする髪形。
(※10)鯨帯。裏表で色の違う帯。元々は黒繻子と白布。俳諧(夏)「汐ふくや汗のうら衣の鯨帯(遊水)」。
(※11)猫じゃらし。帯の結び方の一種。左右を不均等に垂らし、まるで猫をじゃらすように見えるところからこの呼び名がついた。
(※12)猫板。長火鉢の端、下に引き出しを仕込んだ部分に載せられた板。よくここに猫がうずくまるところからこの呼び名が付いた。
(※13)白。素人のこと。玄人をクロと呼んだ。
(※14)屋根舟。屋根懸けの舟。初めは簾などで周りを閉めたが、次第に障子となる。屋形船と呼ぶのは、異名家だけに許された大型の遊山船で、屋根は唐破風造、部屋が幾間もあるものを言う。
(※15)首尾の松。浅草蔵前、隅田川べりにあった松。吉原通いの目印となっていた。
(※16)江東区深川江戸資料館。http://www.kcf.or.jp/fukagawaedo-museum  船宿『相模屋』は、その中に展示のために建築されている。
(※17)お初徳兵衛。人情噺『お初徳兵衛浮名桟橋(おはつとくべえうきなのさんばし)』。文楽、可楽、志ん生が得意とした噺の一つ。

2007年6月17日 (日)

甲州街道又旅人(こうしゅうかいどうまたゝびにん)

 きのふの七ツッ(4時)比(頃)のことヨ。町ィ夕飯の惣菜を買ひに行こふと谷ィ下り切ッた処で鳥渡(ちょいと)車停めて買出(かいだし)の手控えを確かめておりやすと、見かけぬ町者らしい男が声かけてきやしたのサ。「駅までまだどのくれへありやすか。そうあっしに訊きやす顔は、歩きづめだったのか上気して汗にまみれておりやす。「そうさねェ。まだ十五丁(1.5㎞)くれへございやしょう。それ聞くと、その六十路前後の親爺ァ鳥渡げんなりした顔見せやしたが、気ィ取り直すようにひょッこり天窓(あたま。頭)下げ、元気に足ィ踏み出して行きやした。
 こっちァ車なんで、走りだすトすぐに追いつき、西日受けていかにも暑そうに急坂登ってるンで、「乗って行きやすかい。ト声かけるッてへと二つ返事で、ありがてへッて乗り込んでおいでサ。「どっから歩いてきたんで。「甲府からです。オヤこいつァ乙だゼ。とッつァんの歩いて来た方角は、甲府とハ真逆。諏訪の方からト見受けたし、甲府のお人とも詞(ことば)つきが違う。
  そいで聞いてみりァなんと、川崎のお人ヨ。それが甲駅(新宿)振り出しにしてか、甲州街道を歩いてござるッてへから驚いたネ。「いまゝで峠二つ越へやしたが、けふのがいっちきつい。トおっしゃる。峠たァ小仏と笹子サ。笹子峠の旧道はいまぢァ通るような酔狂な車ハねへから、静かそのもの。山賊が出た方が似合うような山道だゼ。
  咄ィ聞いてこれでとッつァんが逆の方角から歩いて来たのが合点がゆくト言ふもので、出会った辺りァ八ヶ岳南麓の末端、その先ァつづら折りの急坂で釜無川へ真っ逆さまに落ちて行く。川を渡りァ日本の宿場百選だかに選ばれたとか言ふ台ヶ原の宿があり、そこを旧の甲州街道が通ってゐる。川崎のとッつァんハそいつゥ登り詰めに登って来たッてわけヨ。まだこの先十五丁も登りが続くッて聞きァげんなりするのも納得サ。
 けふは列車で甲府まで来て、そっから歩き継いだそうだ。「暑かァありやせんでしたかい。ト尋ねると、「風がございやしたンでネ。だが二十号線は貨物自動車(トラック)が多くて、巻き込む風で、三度も帽子飛ばされやした。
  これがほんとの三度笠と腹の中ぢァ思ったが、へばッたお人に洒落を飛ばしちァ罪だから、納めておいて、「犬目の宿辺りァ旧街道の風情が残っていてよござしョ。「えゝあそこ辺りはよかったですねェ。
  そうこうするうち駅に着き、へいお気をつけてトお別れ申しやした。
  そん日は丁度日曜日。そうした日に歩いてお出でのところォ察すれば、まだお勤めの身と思ふが当りでやしょう。そろ\/今までの来方ァ終(しま)いに近づくトなるとなんか自分を確かめたいような気になるお方ァ多いよふでやすからねェ。そいで、いちンち歩いちァ又次ンときにそこまで列車で来て、又旅(またゝび)ィ続ける。そうしてまだ\/おいらァ達者と安堵する。あっしァとうに六十路も半ばのぢゞいながら、なんだか分かるような気ィいたしやしたヨ。そうしたお人に直にお会いするンは初めてでやすが、なんか他人のよふな気がしねへのサ。

2007年6月12日 (火)

池之端紅裏四畳半(いけのはたゑにしのよぜうはん)

 無粋な車連中の空騒ぎ、音にあふれた池之端、その大通りからついと折れると目の前は、水鳥の唄も聞こへぬ黙(だんまり)の、その名もなだけえ不忍池(しのばずのいけ)。蓮の花がそろ\/見比(頃)、なんて風の噂に乗せられて、来てみりャこの始末。今にもしずくの五(いつ)ツ粒十(と)粒、落ちてきそうな雲の下、どんより沈んだ水面(みなも)には、竹の棒ぢァあるめへし、つん\/突ッ立つ枯れ茎は、極楽浄土の成れの果て、蓮の台(うてな)の土台茎。浮き川竹の風情とも、呼ぶに呼べねへ枯山水。侘だの寂だのありがたがる、風流人種のお遊びなら、泪流して大(おほ)喜び、ところがどッこいお生憎。こちとら勇(いさみ)気分の大ぢゞい。歳ァとってもわけえもんにャ引けとらね、気ッ風で通すお兄(あに)ィさんヨ。
 緑の木陰目にも鮮やか、元の呼び名は石畳、いまぢァ役者名前で通る市松模様の大壁そなへ、懸けた招牌(かんばん。看板)、その名も堂々、台東区立ハ下町風俗資料館。こゝで時を過ごして一休みと洒落やしょう。
  ずいッと入りァすぐに商家の造り。商(あきな)うもんハなんと珍し鼻緒(はなを)のお見世(店)。暖簾(のうれん)くゞッて見世の中。正面間近に格子のしつらへ。まさか北州(ほくしゅう[※1])の籬(まがき[※2])真似たぢァねへだろが、格子囲いの帳場があって、ぶら下がるはお定まり、儲けをしるした大福帳。机の上にァ懐かしの、五ツ玉の十露盤(そろばん。算盤)一丁。
  あっしァ商にァ縁のねへ遊び人の安隠居。長居は無用とおさらばし、路次のどぶ板踏んで裏長屋。入ったとっつきァ駄菓子屋風情。これが聞きし裏店(うらだな)か。人気(ひとけ)のねへのを幸いに、なんて言やアまるで白浪(※3)擬(もどき)。 ここは人がついさっきまで住んで暮らしてゐたように、こしらへめかした造りが売りの資料館。上がってもよござんすヨと案内(あない)の人のお許しもらい、三尺土間に足駄を脱ぎ、御免なんせト上がりこんだが四畳半。縁無し畳の真ッちかく(四角)。敷いた枚数与枚半。数は合うが、その小さゝ狭さ。戦後昭和の文化住宅、団地サイズの小畳(こだたみ)が狭い\/と小莫迦にされ、西の京間は大広(おほひろし)、関東江戸は貧乏しょてへ(所帯)、その証がこのけち畳と罵られたが、それよりも一段せめえこの四畳半。先客ァ一人。着物姿に赤い手絡(てがら)がよく似合う、女盛りの年増とにっこり会釈を交わし、袖擦り合うも他生の縁。「オヤおいでなさいまし。「姐さん、お邪魔いたしやすヨ。「なアに遠慮はご無用よ、私(アタシ)も旦那とおんなじ、上げてもらったお客さネ。「そいぢァこれをご縁にちょいの間の、仮のみうと(女夫)の振りでもしやしょうかネ。「まァそれは粋なお遊びで。にっこり微笑み流すその目元。これが色気と言ふものサ。
  お誂へのように卓袱台(ちゃぶだい)の上にァ徳利一本盃一つ。「鳥渡(ちょいと)姐さんいっぺえいかねえかい。「アレ旦那うれしいねェ。空徳利の尻ィ上げ、注いだつもりに、呑んだつもり。空盃を一気に干す気ッ風のよさに、「姐さん、いける口だネ。「なにをおっしゃいます。サご返杯。「オヲ\/、今度あっしに注いでおくれ。注しつ注されつ注されて注して、空徳利の真似遊び。互いに酔狂(すいきょ)なごっこにホヽヽハヽヽの大笑い。洒落が通じる嬉しさヨ。
  サテこいつァいつの長屋だい、問おうて訊ねりァ、なんと江戸からはるかこっちィ来た大正の、れっきとした安普請。天地ひっくり返ッたあのご維新から、四五十年経っても変わらぬ九尺二間の長屋の形。こいつァいゝ部屋へ上げていたゞきやした。ありがた山でお礼申しやす。
 じっくり見りァそれはそれで江戸とハ大違い。脇に押入、濡れ縁に続いて厠一つ。江戸の昔にァ厠は長屋の路次奥に下半分の扉を付けた後架が共有。一軒一軒に厠がついたなんぞ、泪でるほどの大贅沢。押入なんぞも昔ァありァしねへ。布団は部屋の隅に畳んで置くのが当り前と聞いておりやした。
 壁沿いにすっかり渋色に変わった桐箪笥一棹(ひとさお)。それに並んで桑の木目渦巻く茶箪笥一ツ。その上にァ小物入れ。引出の摘み目ェ寄せて見りァ、なんと小指の先よりまだ小さい柿の実のこしらへ。赤銅(しゃくどう[※4])の蔕(へた)もついた凝りよふヨ。こいつァ錺(かざり)職人の腕の見せ処。いゝ道具使っていなさったンだねへ、この部屋の住人ハ。
  どんな人だいと訊きァ婆さんとお娘(むす)の二人暮らしとか。ついと立った姐さんが、引き出し開けた箪笥を見りァ、縞の着物が二枚三枚。細縞から太縞まで、ぜんぶ縞づくしの意気着物。昔の住人、こいつァ玄人、白人(しろ[※5])のおむす(娘)ぢァねへナ。姐さんの広げた長着の袖口見りァ、緋色木綿の裏がつく。渋い表に目を射る裏地。その緋色の袖から白い腕、思ったゞけでも艶かしい。こんな着こなしのおなごし(女子衆)に、どっきり出会ったらもうそれだけで、色の底無し沼にはまり込む。思っただけでも先が見えてらァ。
  姐さん、ちょいと羽織って見せておくンなトおねだりすりァ、あいよお安いご用さネと肩にかけたる茶紫の太縞が、今の姐さんいっそう引き立て、憎らしいほどよく似合う。ぢゞいと雖(いえど)もあっしも男、動悸が打ってどうしようもねえ体たらく。
  長居するは命取り。そろ\/お引けトいたしやしょうと四畳半を跡(後)にすりァ、アタシもそこまでご一緒にト付いて出てくる姐さんと、一歩踏み出しァ案の定。ぽつりぽつりの雫落ち。「オヤ、雨。「傘に入ってお行きなさいナ。ト広げてくれたは青紫の、目に鮮やかな蛇の目傘。思ひがけねへ相合い傘。ふと触れ合う指と指トハならなかったが、広小路の角まで歩み、そいぢァ旦那アタシはこゝでと軽い会釈。姐さんありがとさんヨと別れて二歩三歩、振り返って見りァいまあった姿がかき消され、あれは夢か幻か。はたまた不忍の弁天さんか。弁天様なら、巳年のあっしの守り神。こいつァご利益、いゝ年となる予感。
  お粗末ながら、池之端路地裏の抜き読みでございます。

(※1)北州。吉原のこと。江戸の北にあったので、こう呼んだ。北国(ほっこく)とも。
(※2)籬。吉原の揚屋に格子があり、その奥に花魁が並んで顔見世をした。
(※3)白浪。泥棒、強盗などの別称。歌舞伎などではこの呼称が使われた。白浪五人男など。
(※4)赤銅と書いて「しゃくどう」と読む。漆黒の銅合金。金を三分から六分、さらに銀を一分含む。
(※5)白人。しろうと(素人)のこと古くはこう表記した。はくじん。略して「シロ」と言った。これに対して商売女を玄人(くろおと)、略して「くろ」と呼んだ。

2007年2月 4日 (日)

糸々々々藤屋情(いとしいとしふじやのなさけ)

 師走の十四日(新暦2月1日)、弁天様(※1)をお参りしてト思ひ立ち、仲見世通りの脇の横丁を行くとふじ屋(※2)が開いているぢァござんせんかい。木曜日ハ休みと知れたこと。ほんにけふ(今日)はどうした風の吹き回し。丁度出てくる客と入ちげへに見世へ飛び込みやした。引戸開ける目の隅にちらりとへえった小物袋。こいつァ探していた懐(ふところ)電話入れぢァなかろうか。そうなりャ見(め)ッけもんの占子(しめこ)の兎(※3)。ここで出会えば好都合。弁天様から観音様ト巡り、偽小南鐐(にせしょうなんりょう)いちめへ(※4)、恩をたっぷり載せた浄財ぽんと投げ、ド天窓(あたま。頭)こっくり下げて、あれやこれやと精一杯のお頼み済ませ、伝法院通りの小間物屋(※4)、そこになけりァ新御徒町まで足ィ延ばし、大元の見世(※5)ェ訪ねなけりァなんねへかと、腹ァくゝって出てきたけふ(今日)、こゝで手に入りァこいつァ縁起のいゝ師走、このひとゝせ(一年)の締めくゝりとしちァ、滅法界の上々吉ヨ。
  手に取って見りァ、紛うことなき懐電話入れ。色も色々、柄も色々。中でも気ィ惹くンは、藍の細島(縞)もんト茶の大縞のふた色。「お召しのお着物との写りでは、こちらの藍がよろしいかと」ト見世の女将の弁。その日のあっしの装束は、御納戸色(※6)の地に薄鼠(うすねず)の細縞の長着、羽折(羽織)はじいさん(祖父)の形見の黒八(※7)。女将ァ長着を見てのお言葉だが、あっしの手持ちの着物ハ茶が多い。そのうへ(上)茶の出来の方は、白の縞が抜きになってゐるが、その間隔が不揃い、それがかえって草(そう)の気分で小粋ぢァねへですかい。「その縞ァ竹でござんすよ」。女将の声に見りァ、確かに縞が節になっている。こいつァぞっこん粋。決めたよト大枚二千六百両を紙入(※8)から取り出す。
「ときに女将さん、けふ木曜ハお休みの日ぢァなかったンで」ト訊ねると、「そうなんですけどネ、鳥渡(ちょっと)用があって見世ェ来たらお客さんがいらしてネ。折角いらしたお客さんに休みと言ふのも申しわけないンで、お入りいたゞいたッてわけデ」
 こいつァ嬉しい咄(はなし)ヨ。きょうび(今日々)、突慳貪(つっけんどん)にopenだのcloseだの毛唐の真似して横文字の札ァぶら下げて澄ましてるべらぼうが多いからかなわねへ。それがまた格好いゝと思ってるンだから、始末がわりい。そんな輩(やから)に限って、客の姿見ても、けふは休みだ一昨日お出でト木で鼻ァくゝったような知らんぷりしやがる。誰があっての見世だッて言ってやりたくもなろうッてもんだゼ。
 ネそうでやしょう。そんな不親切な根性(こんじゃう)ぢァあきんど(商人)ハ務らねへヨ。このふじ屋の女将さんの爪の垢でも煎じて飲みなッてのヨ。
 マそんなわけだが、これで咄ィ終わッちァ、題名のいわれが分からねへ不親切になる。ふじ屋はてぬぐい屋だが、その軒先にァ藤の花ァ染め抜いた暖簾(のうれん。※9)が懸かっておりやす。筆でざっくり描いたもんだが、花は平仮名のいの字で表し、そいつが下がるにつれて次第に小さく書かれ、その数ハ〆て十。いの字が十で、いと。花軸は仮名のしの字を長く引っ張ッて描き、花と合わせて、いとし、の洒落。いとしトハ言ふだけ野暮の、戀の一字。いとしいとしと言ふ心ッてやつだ。
 いとし言ふ相手ハいふまでもなく、お客さま。そのお客さま第一の心が、姿ァ見りァ乞われずとも自ら戸を開けて招じ入れるガあきんどッてもの。こゝンちの女将さんの詞(ことば)に、暖簾の屋号が啌(うそ)ぢァねえと知れるゼ。
 けふはいゝ気分にさせていたゞきやした。ありがたふおざりィやすヨ、女将さん江。弁天様にも観音様にも、詣でるめえ(前)の棚ぼたの果報。こいつァ一年の、いゝ締めくくりができやした。

【付け足り】
(※1)弁天様。浅草、金龍山浅草寺境内の辰巳の外れに小丘があり、そこに弁天社が奉られている。脇に江戸時代に時刻を告げた時の鐘が残っている。http://www.geocities.jp/kikuuj/kyudo/kane/toki.htm
(※2)ふじ屋。〒111-0032東京都台東区浅草2-2-15 電(03)3841-2283
(※3)占子(しめこ)の兎(うさぎ)。兎肉の吸物とも、兎を飼う箱ともいい、定かではないが、それから転じて、占めるの洒落。手に入れること。明和九年・楽牽頭(按摩の出来心)「まず一帖しめこのうさぎと懐へ入れる」
(※4)偽小南鐐(にせしょうなんりょう)いちめへ(一枚)。南鐐(なんりょう)=江戸時代の長方形の貨幣、二朱銀の別称。二枚で一分(ぶ)、八枚で一両。表面に「以南鐐八片 換小判一両」と刻してある。鐐とは、白銀(しろがね。銀)の美しいもの、最上質の精錬された銀、純銀、の意。偽小南鐐=ここでは、100円硬貨を洒落て言う。
(※4)伝法院通りの小間物屋。半纏屋 台東区浅草1-37-11 電(03)5827-0810
(※5)新御徒町の見世。かくいわ芝田 http://www.kakuiwa-shibata.com/itemlist-MS.htm
(※6)御納戸色。江戸時代に流行った藍染めの色の一つ。くすんだ緑みの青。人情本・春色恵の花-初・一回(1836年)「畳んで持ちし御納戸縮緬の頭巾をお長にわたし」
(※7)黒八(くろはち)。黒八丈の略。黒絹。緯(よこいと)を鉄分を含む泥土液に浸しタンニンの黒染にした織物。太い緯を折り込むから平織であるが、横うねが現れる。東京五日市町の特産。江戸当初、主として男物の襟地、袖口に用いたが、幕末からの黒色の流行により、羽織地にもされた。守貞満稿-一七「江戸にて男の黒衿袖口に用ふ黒絹を黒八丈と云也」 蓼喰ふ虫〈谷崎潤一郎〉一「黒八丈の無双の羽織が」。
(※8)紙入。江戸幕末、男は鼻紙入れを懐中した。明治以降のように紙幣はなかったので、現在の形の財布はなく、それへ一分金や二朱銀などの小金を入れ持ち歩いた。紙入と財布は同義となり、小生の祖母(明治生まれ)は、財布を紙入と呼んでいた。
(※9)暖簾(のうれん)。のれん。明和初年・遊子方言「そこは何屋だ、のうれんを見さッしやい」

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