縁桃節供汐干狩(えにしのさんがつみつか) 喜三二
けふ4月21日は和暦の参月参日。桃の節供でやすナ。明治のはじめッころに西暦に切りかわつてからッてものしだいに日本の節句の行事を日にちだけ合わせて西暦でやるやふになちつちまつて七夕を7月7日になンてのもそれでやすナ。ほんとは和暦の七月七日。それまで月の輝きで織星と彦星のあいだをへだてゝた天ノ川が消えやして出会えるッてしかけなンで梅雨のさなかの西暦の7月7日に祝つてもなんにもなんねえ。どだい梅雨空で星ァ見えやせんしねえ。そいで桃の節供のことでやすが西暦の3月3日ころにやァ自然ぢやァ桃の花ァ咲きやせんでしよう。桃の節供は雛祭とも呼びやすがもともとは古代中国にはじまつたそふで三月のはなの巳(み)の日を上巳(じようし)の節句として人形(ひとがた)の紙で体をなぜ川へ流してけがれを払つたンだと聞いておりやす。お雛さまのおほもとはそふしたもンなんですナ。それが女児の祭になつたのは男児の端午の節供と対にしたンだそふでその雛祭がさかんになつたンは江戸時代だそふでだんだん贅をこらして内裏雛になりやして一尺五六寸もの大雛がつくられ一両三分くれえものたいそうな高直(こふじき)になつたンで享保六年西暦の1721年にやァ八寸以上の雛人形はまかりならぬと禁止令がでてやすナ。そいでもとまンねえンで五十年くれえ後の寛政にも大雛ご法度の令がまた出てやす。そふなると大きさを遠慮するかわりに三人官女などまわりをとりまく方へ凝つていつたやふでやす。お雛さまをいつまでも飾つとくと嫁ぐンがおくれるとよく聞きやすがむかしァ三才から十三才ぐれえまでゞ月のもんをみるやふになつたら飾らねえもンだつたそふでそこからいき遅れの咄になつたンでやしよう。
サテ三月三日にやァもふ一ツございやすナ。汐干狩(しほしがり)ですな。これは大汐で海の水が大きくひいてゞきた干潟で蛤や浅利をほる遊山でやすが大汐は年に二回あるがもふ一回は秋だが夜中なんで汐干狩にやァむかねえ。じきがいゝのは朝から汐がひき海の水もぬるむこの三月三日から六日までの四日間。江戸の汐干狩の浜ァ芝浦沖、佃島辺、中川沖、高輪沖、それと深川沖、品川沖が名高かッたと言ひやすナ。汐がひきはじめンのは卯(う)の刻いまの時間で午前の6時から7時ッころで昼の午(うま)の刻にやァ遠浅の海の底が干上がるッて寸法で。大人も子どもも着物の裾をまくつて貝ひろいに興じたンですナ。この大汐の日と、もともとは巳の日に人形(ひとがた)を川にながしてた行事が女児が初潮むかえるまでおこなふ雛祭にかわつたのはなんか汐つながりの縁があるやふに思えるンですな。
(初出・カランドリエ平成27年弥生桃の節供号)
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