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2009年11月28日 (土)

吉原合掌巡(ほくりゑかうめぐり)

 師走六日の大寒がくりあげとなつたか凍てつく神無月十月六日(新暦11月22日)の朝四ツ時ぶん(約10時)、流しの駕篭ォ雷門でしろい大川橋(吾妻橋)右ィ流して花川戸から江戸通りィ真ッつぐに待乳山聖天さま。ありがたふト乗り捨てりやァこの寒空の下ぽつねんト娘御一人。目と目が合うがこちとらァご縁のあろうはずもねへ枯れぢゞい。脇ィごめんなすつてト抜けて山門へ。薄雲一家のお方たちァすでにおそろい。とふに大根の奉納礼拝はすませた様子。先達(せんだつ)姐さんがともなつておくんなすつてあつしもおくらばせながら本堂へ。真ッちろい大根いつぽんお納めさせていたゞきやした。供物台めえの小箱の茶色の粉を指先でつまんで手のひらへ。こすり合せりやァありがたき香り、こいつァ沈香か。これで身にしみついてた邪気も失せやしよう。サテ丁度時間となりましてト連れ立つて境内くだりやァさつき人ッ子一人だつた辻の角にやァ若いおむす(娘)の衆が十ッ人リ(とッたり)も廿ッ人リ(にじゆうッたり)もの人だかり。けふはなんかあるンですかい。ト首ィかしげてよく見りやァあつしらの先達姐さんがそン中に。なんとこの大所帯(おほじよたい)がうちらの集まり。よくぞいまにも白いもんおとしそふな寒空の下お集まりになりやした。東深川西四谷新宿南品川北吉原北國(ほこく)北州(ほくしゆう)北里(ほくり)花のお東都(ゑど)の華の華北里のその灯消えて幾星霜いまをたずねてむかしを偲び紅の御霊を弔はむと参集(さんじゆ)せる老若善男善女卅ッ方(さんじッかた)今土橋を振出にいまァ埋立られた山谷堀そのひよろなが公園を一路大門(おほもん)目指し往く。堀ィならんで左にあるはずの土手八丁日本堤の姿がねへ。そいつゥ削つてこの堀を埋めたか日本中の大名の労苦も土の露と消え果てたか。いざッてェときハ裾をからげて爺ンジばしよりト決め込む腹のパッチ(絹股引き)の雨支度。足元真塗(しんぬり)足駄、赤樫薄歯がサク\/と土を噛み小気味いゝ歩きごこち。足駄ァコンクリじやァ生きねへ、日本の履物ハやっぱり土の道で磨かれてきたのヨ。やがてひよろりと一本柳の木。寒気に緑も冴へねへが、その名も艶な見返り柳。後朝の別れに後ろ髪ひかれて振返るか、振られてくやしく振返るか。そこが粋と野夫(やぼ)との別れの柳。左へ衣紋坂。なんとか引(ひけ)めえに大門をくゞろふと息ィきらして江戸から駆けつけ、こゝで衣紋たゞして坂ァくだる。いまァ平になっちまいやしたが、曲がりくねって大門見通せねへハ昔と同じ。五十間道で大門跡。いまぢやァわびしい茶の柱が両脇にひつそりと立つばかり。それと言はれなきやァ見過ごす風情。くゞつてへえりやァ番所があつたッてへ処(とこ)にハいまぢやァ交番所。うまくしたもんだねえ。江戸のむかしは女良(じよろふ)の逃げ出しやうさん臭へ奴を見張つたがいまハ誰を見張つて日をすごすやら。お歯黒どぶも埋立られて、いまハ変哲もねへたゞの横丁。歩やァわきに石段二三段。これだけ土盛で高くして新吉原をつくつたのが知れやしよう。こゝいらハもともと田圃ばかし。山谷堀はァすぐに水がつくッてんで、幕府の命で諸国の大名合力で三ノ輪までつくつた堤が日本堤。元お歯黒どぶをたどつてぐるりとまわり、江戸町一丁目弁天池の供養塔に手向けの線香。関東大震災で火に追われ逃げまどったお女良(じよろう)が命を落した。昭和20年3月10日、三ツ子のあつしが遠く青山から東の空一面が炎と輝くのを見たあの東京大空襲でも、この吉原では命を落してゐたゞろふし、喧嘩と火事は花と言った江戸ッころァ逃げ口のねへ吉原に火がでりやァそのたびにお女良が若い命を落して果てた。線香一本でともらえるもんでもねへが気はこころ、勘弁しておくんねへト手ェ合わす。仲の町の角見世で先達姐さんお手配の熱々今川焼。こいつハうれしいありがて。凍えた躰があつたまる。懐かしいねェ。子ども時ぶんはよく食べやした。バリがたくさん出てゝこれがまたおご馳走。パリパリ香ばしくつて、中ァとろりのつぶし餡。さらりとした甘さが洒落の吉原。こゝで鳥渡(ちょいと)腹ァつくつて、今度は遠のしゝて三ノ輪浄閑寺。江戸の比(頃)投込寺で知られた浄土宗の寺。曇天夕闇迫るなか、本堂の裏手にまわれば大欅の葉陰に無数の骨壺を納めたといふ石積の新吉原総霊塔。安政二年(1855)の大地震、吉原のお女良が大勢死に、その骸(むくろ)が投げ込み同然この寺に葬られ、いらい投込寺の名が通り名になったと聞きやす。総霊塔が建立されたァそれよりずっと跡(今の言い方では前)、寛政五年(1793)。いまあつしが手ェあわせてるのは八十年ほど跡の立て替えといふ。投げ込まれたお女良はどれもこれも廿一二にゝなるやならずの若さの盛り。年期証文身を売られ、お歯黒どぶと格子にはゞまれて、十七十八十九の花盛り、泥水稼業の明け暮れに心も病んで身も果てゝ、咲いてかゞやく命ィけずられて、やっと恨みのどぶヲ越へたのハ屍の身。身ぐるみはがされ筵(むしろ)一枚最期の仕掛け(花魁の衣装を言う)。総霊塔にぬかずいて手をあわせても詞も出やしねへ。けふの寒さは遊女女良の骸の冷えか。へたな慰めァ啌(うそ)なる。涙も流れぬ心の闇の暮六ツ時。たゞ黙して合掌。

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コメント

呼び出しの花魁ならともかく、たいていは嫌な客でも振りつけるわけにもいかなかったんだろうねえ。なにしろ、客がつかなきゃどんどんひでえ見世に回されるんだもの。

男は惚れたはれたの浮き足立って、おいしいとこだけ回想して暮らせば済むが、張り見世の格子んなかで年季明け指折り数えて待ちながら、好きでもねえ野郎どもが冷やかしていくのを見送るなあ、辛かったろう。

そりゃあ、宴会だけで帰っていくお大尽がいりゃあ、モテたに決まってらあ。そんなカッコいいことしてみてえもんだよこの、憎いねえ。

今は好きで水商売やってるのがほとんどだろうなあ。儲かるしね。幸せな時代だよ。嫌ならやめりゃあいい。
まあ、かつてと違って、男の粋の見せ場はねえが、女のほうは銀座用のお着物やドレスに金がかかって、パパに頼まなきゃあやっていけない、なんてのはいつの世も同じかねえ?

moon3ねこじゃねえやいのお玉姐さん江

 洒落本の挿絵なんかでみる大籬のようすはさほどでもねへが、明治になって写真で撮られた格子の向ふに花魁新造がゐならぶとこ見やすと、鳥渡(ちょいと)切なくなりやすゼ。まさに籠の鳥。年季明けまで辛抱するか、身請されるかまで出られねえ。身請だって好いた男がしてくれるわけぢやァねへしナ。
 吉原めぐると、こっちが男ッてだけで申しわけねへ気になりやして。どうにもいけやせん。

 喜の字

吉原合掌通読みました。
難しい。でした。
私の頭、理解する時間かかります。
時間かけても理解難しい部分たくさん。
私、解半、分らない多い。

愚老 奈の字

moon3奈の字の旦那江

 旦那ァ書き込みがだんだんかたことの中国人におなりですゼ。わからねへなんておとぼけ言って髪の長いおむすなんか何人も泣かした口ぢやァありやせんかい。玄人も罪だが、白人(しろうと)も罪だヨ。

 喜の字

 

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