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2009年6月14日 (日)

風柳午褄弾(ふうりうひるのつまひき)

 ごッつォうさんト大黒屋[※1]をでりゃア、向いハ小松屋[※2]さん。柳橋も啌(うそ)かくれもねえその橋の袂、比(頃)合いの柳一本ワキに立て、こじんまりと控えた見世構え。白木のきざはしとん\/\/ト上がり、「ハイ御免よト面ァつッこみむ。こゝンとこ金春(こんぱる)通りの三河屋[※3]さんで間に合わせちゃアゐたが、目のめえまで来てゐて素通りハできねえご縁。佃煮買うならこゝンちッきゃアねえッてエあっしの入れ込み。佃煮ッて言やァ日持ちするもんッて昔ッから決まってンだが、欲こいてそれよりもたせやふッてンで妙な薬入れてンのが余所にゃたくさんあるらしいが、こゝンちのにァそんなからくりがねえのがあしゃアお気に入りッてェわけヨ。混ぜもんしてねえのは、喰ってみりゃいっぺんでわからァ。お分かりぢゃねえお方ハ止しにしときな。そんな奴ァ喰ふだけ無駄。食べもんになってくださる貝や昆布だの醤油や味醂、汗水流してつくる見世の大将の精根も無駄になるからナ。分かる奴だけ来りゃアいゝのヨ、ちッせえ見世なんだから。大将、いつものにっこり顔で「いらっしゃいましのお出迎え。「暑くなりやしたなト時候のあいさつ、途端に待ってましたの追ッ風。縮の帷子(かたびら)麻の長襦袢、体ン中ァさあッと駆け抜ける川風のこゝちよさ。桐駒下駄麻足袋の、足の指まですが\/しい。「いゝ風が、通りやすねえェ。江戸もいまぢゃあ東京と、名ァ変えたがいつのまにやらどさくさに、江戸ッ子なら鼻もしっかけねえ、朱引[※4]ご府外のド田舎までも繰り入れて、いまぢゃアあっちもこっちも堂々の都面(みやこづら)、あっしゃアそのしがねえ片田舎住い。隅田の川風袂に入れてお暮らしなんて小松屋さん、ほんにおめえさんハ果報もんだゼ。
  大の字付きのお気に入り、手むき浅蜊と醤蝦(あみ)の佃煮桶二ツ、包んでもらい、でハまたまいりやしょうトおさらばし、きびす返して渡る水面の柳橋。江戸の昔のことならバ木組造りの太鼓橋、ぢゞいと言へども桐下駄の、からころはずむ音色(ねいろ)も涼しげだッたらふが、いまァ無骨の鉄筋西洋造り。風情もそっけもありゃアしねエ。そいでも下(しも)ォ見りゃア、神田川がとんとぶッかる大川の、波打ち寄せる向ふ岸。遠目にながむる岸辺り、咄に読んだ百本杭[※5]。その跡形もいまぢゃア野暮なコンクリ土手。緑のみの字も見あたンねえ。都々逸の粋な文句ぢゃアねえけれど、ものゝ半丁も往かないうちに、もふひらけて広小路、両国橋の西詰[※6]。なんてえこったア江戸一二の盛場も、人気(ひとけ)のけの字もねえさびれやふ。渡った先に赤幟。薬研堀[※7]不動尊[※8]。風にはためき招く招牌(かんばん。看板)、幟の並び。名高きこの堀の名も、いまにとゞめるのは、七色唐辛子かお不動か。江戸のとっくに埋立くって跡形もなし。小路の奥のお不動に偽銀いちめえチャリンと投げ入れ天窓(あたま。頭)ァさげ、ふと耳すましゃア、ありゃア爪弾く三味の音(ね)か。お堂のとなり辺りから洩れ聴こえるか。あゝお江戸さんヨ、生き残ってゝおくれだねエ。うれしいゼ。かすかなその音に合せ、なにやら唄ってゐるやら口ずさみ。聴こえるやふな聴こえぬやふな。その気配のほどがまたいゝねえ。
 江戸は建物ぢゃアねえネ。風情と気ッ風ヨ。ちか比(頃)在も在、新出来の東京にもへえンねえ田舎に江戸を思わせる町並が残ってるッてンで、小江戸とか言ってもてはやすが、そいつァあっしにゃア合点がいかねえ。それハ江戸のじでえ(時代)であっても、江戸の町ぢゃアありやせんでしゃう。町ァ江戸の気ッ風がなけりゃア、建もんが似てゝも別もんヨ。こゝらが線の引き分けでやしょうヨ。ヲッといけねえ、お不動さんが二階よりもたけえ処(とこ)にあるせいか、柄にもねえ偉そうなことほざいちまったゼ。退散、たいさん。あばよ。

【附(つけた)り】
[※1]大黒屋。天麩羅。http://www.geocities.jp/daikokuya_tempura/index.html
[※2]小松屋。佃煮屋。http://www.tsukudani.net/order/
[※3]三河屋。http://www.ginza-mikawaya.jp/items/gift2/02.html
[※4]朱引。御府内を示す境界線。文政元(1818)年に幕府が定めた。東は砂村亀戸木下川須田村、西は代々木角筈戸越上落合、南は南品川宿大崎、北は荒川を限りに板橋まで。この二廻りほど内側に墨の線引きが在り、町奉行の管轄範囲はそこまでである。
[※5]百本杭。ひゃっぽんぐい。本所横綱町一丁目先の大川端の俗称。水除けに沢山の杭が打ち込まれていたのでこの呼び名が生れた。かつてこの辺りから、浅草瓦町への渡し船富士見の渡があった。
[※6]両国橋西詰。渡れば房州、こっちの江戸は武州。二つの国を結ぶので両国橋の名。橋の両端に火除 地として広小路が設けられていた。小芝居などの仮小屋が許され、栄えた。
[※7]薬研堀。①両国橋から南西へ一丁(約100m)ほどのところにあった掘割。細長い形状が生薬などを磨り潰す薬研に似ていたところからこの名で呼ばれた。お米蔵への舟路。明和八(1771)年、蔵の築地移転にともない、埋立られた。堀名であると同時に埋立地であるこの辺り一帯の俗称でもあった。踊り子とも呼ばれた転び芸者が多く住んでいた。②薬研堀不動尊の略。
[※8]薬研堀不動尊。江戸三大不動尊の一つ。かつては薬研堀の堀止まりに位置していた。元禄三年(1688)年、勧進で諸国を廻る六十六部が置いていった不動尊を祀ったのが始まりと伝えられている。毎月二十八日が縁日。三大不動の残り二尊は、目黒と目白である。

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コメント

師匠ったら、もうお加減はいいんですかえ?

寝てんのに飽きたからって、無理しちゃいやだよ、んとにもう。

小松屋さん、こないだ電視箱に紹介されてましたよ。
甘くねえ佃煮、と聞いたとたんに駆けつけたくなったね、あたしゃ。
フジッ子煮じゃあ、島に持って帰るに及ばねえもんなあ。

アタシの子供時分は、アサリだの椎茸だのカツオ昆布なんてえのがお八つに出るもんだから、三つ子の魂百までなんて言うけれども、そういう塩分過多のモンが食いたくってしょうがねえ。

なあに、塩漬けなら死ぬときゃ卒中か心臓発作で一気に死ぬからいいんだよ。

moon3ねこじゃねえやいのお玉姐さん江

 おしゃる通りヨ。三ツ子の魂しゃく(百)までもサ。  餓鬼じぶん本所のはずれにゐたンで、あっしの体の四分の一ッくれハ佃煮でゞきてるッくれえサ。むかしゃア混じりッけのねえもんがそこらで売ってゐたんだが。いまアあやしいじでえになッちまったもんサ。
 小松屋さんのハ醤油きかしてしっかり煮込んでッから、島に持ちけえってもでえぢょうぶだらふヨ。

  喜の字

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