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2008年12月31日 (水)

大晦偽仇姿(おほつごもりいつわりのあだすがた)

 けふ三十一ンちハ大晦日。こいつァ小学手習指南所の洟垂れでも知ってることだが、じつァ真ッ赤な見当ちがいたァほとんどの世間さまァご存じねへ。トあっしが言ふのもおこがましいが、こいつァ南蛮紅毛バチカンの西洋暦の取決(とりきめ)。西と東ぢァ季節もなんもおほちがい。あっしら日の本のお国たァ、日の出日の入り月の満ち欠け、天と地ほどのちげえがあって当然。行事も詞も時候季節から生れでるもの。そのおほもとは言はずもがなの暦が元。そいつゥ曲げちァ民(たみ)民俗の根本が狂っちまわァな。もと\/皐月と言ふハ梅雨の月、その長雨の間をぬって空ァ拝めるから五月晴れ。西の暦の五月ァ晴れがつゞいてあたりめえ。詞が狂ってくらァ。
 日本にァ太陰太陽暦ッてえ千年の余つかってきた季節にあった暦がある。これでいきァけふはおなじ師走とハ言えまだ初ッぱなの五日。新年元旦はまだ二十日も先のこと。歳末気分にならぬも道理。年は明けても春にァならず寒さがつゞく冬のさなか。西洋暦、こいつァ日本にとっちァまやかしの暦だゼ。
 さて、太陰太陽暦、またの名ハ旧暦、天保暦。こいつでいきァきたる平成二十一年ハ五月が二回。閏五月がある年ヨ。まる\/ひと月ふえて十三ヶ月。こいつァ月給取りにァこたえらんねえだろうなァト思ひきや、この月給払いがかなわねえト明治の政府は一計案じ、脱亜入欧白人の仲間入り、支那渡りの農暦捨てゝ、目先ちょっくら西洋気分。古い幕府じでえの風習捨てさり、明治五年十二月三日を六年元旦とくりあげ、月給一月分をちょろまかし、十九年に七回あった閏月もなくったンでこいつァしめこの兎。懐中奇しい新政府にとっちァ万々歳の大変革。おかげで以来、時候季節や行事をあらわす詞の帳尻合わぬがまゝサ。さァ、さァ、さァさァさァ、どうしてくれるンだい。

2008年12月29日 (月)

【番外】〈十三〉川柳ひとり柳戯溜(やなぎざる)

   さむらひの 妻子兄弟 扶持の外

 士(さむらひ)の禄だが、時代劇の捕物でお馴染みの定町廻同心のが判りやすいンだが、あのお方たちァ三十俵二人扶持。石ではなく俵でもらうのを俵取りッて言ひやして、これを毎年に春夏冬の三度に分けていたゞく。扶持ッてえのハなにかッてえと、食い扶持なんだね。一人いちンち玄米五合。そんなに喰ふのかいッたって、玄米だからネ。こいつゥ搗(つき)米屋で七分搗きの白米にすりァ三合半、六分搗きなら三合に目減りするハな。その上、米で搗賃をとられたりするから、もっと減る。これを朝まとめて炊いといて喰ふわけヨ。おかずなんてあんまり喰はねえ。そんな銭もねへ。飯で腹ァふくらませンだから、このくれえ楽に喰ッちまう。でダ、この二人扶持の一人は当然その家(や)の当主、もう一人は奥様の分ぢァねへのサ。武家の禄ッてのは、兵のために支給されてンだから、奥方だのお子だの当主の兄弟姉妹なんかは十露盤(そろばん)の外ヨ。そいぢァもう一人分の扶持はッてえと、それは主の部下で従者の分ヨ。二人分の扶持のお手当てがあるッてことハ、共を一人抱えてゐろッてことサ。いざッてえときァそいつゥ連れて戦場(いくさば)へ駆けつけろッてことだ。武家ッてえのハ普段から戦の構えでゐなきァなんねえンで、同心が奉行所へ出仕するときにも共に挟箱ッてえのヲ担がせて行くのが決まりになってゐて、その中にァ捕物に出るときの草鞋から装束一式を入れて歩いてたンだネ。そんな装束、奉行所に置いておきァいゝかッてえと、いつなんどきでも働けなきァなんねえから、行き帰りも夜中の屋敷でもそれが手の届くとこになきァいけねえことになっておりやしたンだネ。そいで、三十俵ッてえのハなんのためかッてえと、そいつァ定められた軍備を整えておくためとその二人の暮らしの費用だってわけサ。
 江戸じでえにへえって落ち着くまで、士ァ家らしい家なんかで暮らしたこたァあんまりねえ。戦場で野宿だの城にこもって守りィしてゐたンだが、戦がなくなったら士も人の子、かみさんを持つわナ。トすると子が出来やしょう。そうすっと口が増えちまうわけだ。だが、抱え主の殿の方ぢァ戦の要員としてしか禄ハだせねえンで、太平の世になりァなるだけ暮らし向きが苦しくなッちまふッてわけサ。もっと禄を出してやるにァ農民から年貢をしぼらなけりァなんねえが、四公六民、五公五民がいゝとこで、あんまり年貢を高くすりァ一揆が起きて、元も子もなくなる。だから税は増やせねえ。だが、武家は子が親になりまた子を産んで、代々で増え続ける。着る物も諸道具もだん\/目が肥えていゝもんが欲しくなる。あすび(遊び)したくもなる。金がかゝるようになって当りめえ。こいつァ苦しくなるわけヨ。

   さむらひハ 二百余年も 高楊枝

 江戸じでえ(時代)てェのハながいネ。二百六十年あったッてえからてえしたもんだゼ。家康さんが将軍におなんなすッて、江戸に幕府を開いてからそいだけずっと続いたわけヨ。初めン比(頃)ァ、お大名から下の方まで景気ァよかったろうネ。しょッぱなの吉原も新吉原も、お大名などのお武家相手ヨ。だから、夜はやらねえ。昼間だけだったそうだネ。お武家ッてのハ戦(いくさ)のための人たちだから、宵の口の暮六ツにァ屋敷ィ戻って変事に備えなきァなんねえのが決まり。そいで昼あすびしかしねえ。
 その景気のよさも、はなの高々三十年ッて言ひやすネ。それッから跡(後)ァじりひんの貧の字。こいつァ徳川家の直参だけぢァねえ。諸藩みなおなじ。わけァ上に書いた通りサ。でもそこが士だねえ。古傘貼りの内職したり、目白を育てゝ売ったり、つゝじの栽培したり、手習い指南をしたりして、なんとか保ったンだねえ。二百三十年も。あっしァ頭ァ下がるゼ。代々貧乏しか知らねえッてわけダ。そいでも武家は矜持を保たなければならねえ。貧して鈍するようぢァ武士ぢァねえッてネ。それを江戸の町ッ子たちァ身近に見てたから、武家にァ畏敬の念をはらってたッて聞きやすネ。江戸ッ子ァ意地と張りだッて言ひやすが、その気ッ風がどっから来たかッてえと、周りにたくさんゐた徳川直参の旗本だの御家人の生き方お手本になってたからでやしょう。あきんど(商人)の町の浪花とハそこが大きく違うとこなんでやしょうナ。

2008年12月28日 (日)

【番外】〈十二〉川柳ひとり柳戯溜(やなぎざる)

   いっぺんハ 吸いつけ多葉粉(たばこ) 呑みたやな

 吉原の大見世行くッてえと、花魁ッてえ錦の鳳凰[※1]のような仕懸(しかけ[※2])着たお女郎がゐたそうですなァ。この辺の位になると、長屋のばけべそとおンなじ女たァ思えやせんナ。天女だのお公家のおひいさまッてのが、江戸の大門(おほもん)の中へ舞い降りたンぢァねえかと思ふくれえ奇麗だったそうですな。そいでまた、上品どころか口なぞまったくきかねえ。挨拶だってしてくんねえ。こっちァお客だヨ。払うンは銭ぢァねえ、お金。お金ッてのハ金(きん)のことだからネ。いまみてえに紙ッ切れに一万円なんて書いてあんのとハ分けが違うンだ。小判だヨ。よっぽど腕のいゝでえく(大工)だってひと月汗水流して働いたって、もらった銭貯めて小判に替えたってたった一枚になるかどうかッてえ十露盤(そろばん)だってンだ。そいつゥ一年分の十二三枚持って行ったッて一晩のあすび(遊び)に足りるかたりねえかダ。もっとも法被のでえく風情ぢァ大見世ハ登楼(あが)らせてくんねえけどネ。そいでもそんな思ひして登楼っても、初会ぢァ口もきいてくんねえどころか、目も合わせてもらえねか。まったく眼中になしッてあしらいだ。それが二度目になるト客が実のあるとこ見せたッてんで裏をけえしたッてことになる。そうすっとあの澄ましてた花魁が二三寸、こっちィ寄って座ってくれる。うまくすりァ朱羅宇(らう)の長烟管に煙草詰めて火を点けひと口吸い、その吸口を袂で拭いて「主さん一服おしなんしなんて差し出してくれるのヨ。もう天にも昇る気分だゼ。これが吸いつけ煙草。これをおしいたゞいたりしちァ、無態ヨ。鷹揚にうなずいてふんわりと吹かす。こういかなきァ遊びが遊びになんねえもんナ。そんなお大尽ごっこ、お江戸の大店の若旦那に生れかわってやってみてえもんだねェ。

【附(つけた)り】
[※1]鳳凰。吉原の総格子の大店などでは、花魁の席の後の壁に豪華絢爛極彩色の鳳凰図が大きく丸におさめるように描かれており、花魁は鳳凰の位であることを示していた。信州小布施の寺の天井画として現存する北斎の筆による鳳凰図は吉原の遊女屋に描かれていたそれと酷似している。
[※2]仕懸(しかけ)。裲襠(うちかけ、かいどり)など、花魁のきらびやかな衣装のこと。吉原語。

   銀延の 喜世留(きせる)通人 気取りなり

 江戸の比(頃)ッてのハ、決まりがいろ\/ありやしたが、そいつァ世をはゞかって遠慮するッてのが元にあるからなんで、言われて引っ込むようなけちくせえ根性ぢァなくって、てめえの方で一歩ひいて世間にはばからねえようにしたもんですワ。金があるからいゝ、買えるンだからいゝッてえ無遠慮は江戸の町ぢァ奴(やっこ)とかカッペッて後指さゝれやすナ。それこそ野暮ッてやつで。身分不相応ほどこそ身の程知らず恥ずかしこたァござんせんもんネ。それが烟管にもちゃんとあったそうですナ。金(きん)はそれこそお上を憚って持たねえ。銀延べのものハ士(さむらい)、町人は雁首と吸口との間を羅宇でつないだものト決まってゐたッて聞きやすネ。馬子駕篭かきハ豆烟管トだいたい相場が決まっておりやしたナ。そんなことで、町人の大通が気障に銀延の烟管誂え、そいつゥ得意になって上ェ向けて吸ってみねえナ。それこそ脂下がるッてやつヨ。烟管ン中ァ脂がたれ下がってきて、口がひん曲がるゼ。ざまァみやがれッ脂下がりやがってッてえやつサ。なんでもこの世は身分相応にしておきなッてネ。

2008年12月26日 (金)

百隠居惚千両蛤(ひゃくいんきょのろけのせんりょうきしめん)

 暮れも押し詰まって来たンで、こゝンとこすっかり深い馴染の仲の飯田橋ァきしめん亭尾張屋[※1]の蛤花魁ンとこへ足ィのばしたと御覧(ごろう)じろ。そんときァ牛込の仕掛鍼師牛庵[※2]とこに午(昼)に面(つら)ァだす用事があってそのけえり。ごったげえす時分どきァ外れておりやすんで、客の姿ァたったの一人。こいつァ〆(しめ)このうさぎ。うめえもんはガサ\/した中ぢァ喰いたくねえッてのが人情。お誂えむきの静かさ。釜場のてえしょう(大将)も、あっし一人誂えの蛤花魁の仕掛仕立に気がへえろゥッてもんだゼ。
 手早く運ばれた丼ン中にァ、いつに変わらぬ大蛤花魁の笑み四ツ。花びら散らしたように輪を描いてきちんと並べられた蛤ァどのひとつとっても遜色ねえ見事なぷっくらふくよか加減。思わずあっしもにっこりサ。さて、きしめんを箸で手繰りだし、口に含めばつる\/と、滑って逃げようとする絹の肌。まるで新造(しんぞ[※3])の肌ざわり。新造買うは隠居と相場が決まり。そんな隠居数々あれど、貧乏隠居百隠居[※4]。苦しい身銭のやり繰りでとぼ\/通うこの律儀。察して逃げずに頼むぜ新造肌のきしめん姐さん。そいつを騙し\/二箸三箸。喉越し味わってから、いざ真打ちの蛤花魁。白粉塗ったぢァねえが、花も恥じらふ眩しい真ッちろい肌。ふっくら丸く、ふくら雀のふくよかさ。こいつァ豊年の縁起よさ。西洋かぶれの哀れな新暦じでえ(時代)だが、これなら新年も上々大吉まちがいねえ。さいごに啜ったつゆの旨さ。大蛤花魁四ツのコクがもったいなくもたっぷりと。飲干たけれどそこハお水ご法度のせつねえ体、じっと我慢で杓子で三杯。そいで今年はこれきりト後衣(きぬぎぬ)の別れ。待ってゝおくンな。松がとれたらまた杖突いて、きっと来ますヨおまい(お前)のとこに。通いつめたい千両花魁。たった千両札いちねえで、こんなにしっぽり仇な時ィ過ごさせてくれるなんて、紙より薄い情けの浮世、ほんにおめえハいゝきしめんだねェ。

【附(つけたり)】
[※1]きしめん亭尾張屋。正しい屋号は、きしめん 尾張屋。http://bakabros.seesaa.net/article/27209656.html
[※2]牛込の仕掛鍼師牛庵。正しくは、牛込柳町治療院。http://www004.upp.so-net.ne.jp/tajima/
[※3]新造(しんぞ)。花魁の妹女郎。16、17歳ぐらいの年齢。主に部屋持ち花魁に二名付き添っており、花魁が廻しで体が空かないときは名代で、客の間を取り持ったが、その場合の客は決して触れてはならないのが吉原の掟であった。別個に新造を買うのは年寄である隠居と相場が決まっていた。
[※3]百隠居。貧乏でけちな隠居、の意。江戸語。散財してもせいぜい百文ぐらいしか使わないところからこう呼ばれた。

2008年12月21日 (日)

【番外】一力心中

 書肆(ほんや)をひょいと覗くッてえと、戯作(しょうせつ)の分厚い単行本が目にへえったのヨ。外題ハたしかありァ、粗茶を一服ッて書いてありやしたネ。角書(つのがき[※1])ぢァねえが、横ッちョに損料屋喜八郎始末控えとありやすのサ。損料屋てのハ銭金もらって物ォ貸す稼業だが、あっしが気になるのハ尻(けつ)ンとこヨ。控えッてえのハ、どういうことなんだろうねェ。戯作者は江戸物書かしたら、ちか比(頃)ァ一だ二だのッて言われる山本一力師匠、板元[※2]ハ天下の文藝春秋ヨ。それがサ、控にえの字ィ送ッてえる。こりァ多分、師匠のうっかりに、文春さんもつゞけてうっかりしなすッたねッてところなんだろうが、あっしァ悲しくなるゼ。編集さんだっておりやしょうし、校正の玄人も揃えておいでの立派な板元さんでやしょう。それがこの始末サ。
 ちか比これが多いのヨ。控は物の名前。西洋文法で言ふところの名詞でやしょう。名前に活用はねへ。だから、送仮名はつかねえものと思ひやすゼ。送仮名がつくのハ使い方で言葉が変わるときだけでやしょう。控える、控えねへ、なんてときだろうヨ。これもむかしァ、えの音は変わらねへンだから、送仮名にして漢字の外に出さずに控るッて書いたはずだゼ。それを見た目の優しさッて甘やかし癖でどんどん外に送りだしちまうようになりやがってサ。
 ま、鳥渡(ちょいと)本題から外れたから戻しやすが、物の名前に送仮名がついちまう奇妙奇天烈(きてれつ)な元は電脳箱だゼ。そんなかにへえってる和玄人(わーぷろ)ッてのがありやしょう。一力師匠も板元の組方もそいつゥ動かして文字書いてるンだろうが、それに鳥渡ばかし不精仕掛がありやすのサ。日本語の仕掛つくったお人たちァ言葉の玄人ぢァねへンだろうねェ。なるたけ少ねえ手間で仕上げちまうふッて魂胆なんぢァござんせんかい。たとえば、この控ヨ。物の名前ンときハ控、活用のあるときァ控えッて分けるト二ツつくんなきァなんねへ。そいで、源(みなもと)の形を控えにしておいて両方兼ねさせちまえば、仕事がはえへッて算段ヨ。この例はいっぺえありやすゼ。気持ちなんかもそうだ。気ト持つヲ併せて気持ちにしちまったのヨ。気持ちハ実正(ほんと)は気持だゼ。気持に送仮名なんかねえのサ。大本の形ハ持つ一ツにして持はやめておきァ、持たない、持つとき、持てばッて按配に変えることができるンわけサ。辞書屋も甲斐性なしサ。和玄人つかって世間の多くが気持ちッて送仮名付で書くもんだから、それも有ッてことにしちまって、気持または気持ち、どちらでもよしなんて、骨のねへこと書いてやがる。名詞に送仮名があってたまるけへ。この送仮名ッて詞だってそうヨ。あっしの電脳箱の和玄人から出てきた文字を、そのまゝこゝに書いてみやしょうかい。こうなッてるンだゼ。送り仮名。おめえさんの和玄人ハいかゞでえ。送仮名ですかい、それとも送り仮名。気持ですかい、それとも気持ちですかい。
 文春(ふみはる)姐さんもそこんとこちゃんと直していかねえと、一力の物書師匠といっしょに相対死(あいたいじに[※3])になっちまいやすゼ。

【附(つけた)り】
[※1]角書(つのがき)。本題の上に小さい文字二行で付ける副題を牛の角に見立てこう呼ぶ。
[※2]板元。江戸時代、印刷物は板木に文字や絵を彫り刷ったので、この文字が使われていた。
[※3]相対死(あいたいじに)。心中、情死、の意。江戸法律用語。元禄の頃より、近松の戯曲などの影響などで心中が美化されて流行ったため、八代将軍吉宗が心中の語に代えて使わせた。

2008年12月14日 (日)

【番外】贅沢寄席第参回白瀧寄席

 練馬は板橋との境、かれこれ百五十年ほどものうれん(暖簾)を張る白瀧呉服店。きのふ霜月(十一月)十六ンちの八ツ時ぶんから暮六ツッ比(頃)にかけて開かれた白瀧寄席へ寄せさせてもらってまいりやして。この日ッてのハなんだよ。満月ヨ。ちょいと雲があったンでよくァ判りやせんでしたがネ。暦もいまのじでえのお人になれた西洋はローマ法王のカレンダーで言やァ12月13日の土曜ッてやつに当りやすンだが、赤穂浪士の討入ァ十二月十四日ッたってあの時ぶんは西洋の日付ぢァござんせんから、実正(ほんと)ンとこハまだひと月も先、西洋日付で言ふところの1月の9日ッてことになるンですワ。
 木戸銭もさすがに呉服屋さんだヨ。お一人三千円の処、着物姿のお客さんハ二千と五百円、五百縁がありますよふにッてこゝろだねェ。ありがた山。座敷にへえって驚いたヨ。夏に寄せてもらったときよりも座布団の枚数が少ねえ。ッたッて大喜利ぢャねえゼ。客席ヨ。二十枚の余ちょいしか敷いてねえのヨ。こんな小人数で名のある芸人さんの噺ィ聴いてよござんすのかねえ。苦しがり[※1]のあっしァ席亭さんの懐がしんぺえになっちまうゼ。
  六曲金屏風ゥ背に、二段くれえ高くしつらえた上に緋毛氈に厚い座布団敷いての高座ヨ。上(かみ)[※2]にァ代々手ェかけて丹精してきたゞろうッてェ枯れた味わひの庭サ。主の五代目さんに聞きァやっと整ってまいりましてッてご謙遜だが、いっときァ荒れてしまってたのかもしれねえが、この庭観たさに見世ェ訪れる客もゐるッてくれえ味のある庭ヨ。それェ脇において落語聴くなぞ果報な会だねェ。
 さて、皮ッ切りァ高座のお決まり、前座さんで始まりやして。これも前座の決まり、羽織なしの長着姿。春雨や雷太ト名乗りやしたヨ。来るなッて思ったら案の定ヨ。「私の芸名春雨で、こちらのお見世が白瀧。おかずのようでございますが、トね。あっしァ白瀧さんッてえとぽッといつも天窓(あたま。頭)に浮かぶンは、すき焼でして、こいつァ申しわけねえから五代目さんにァ言ゑねへのサ。そこい(へ)今度は春雨だゼ。あっしァ春雨と聞きァお吸物が大の字つきの好物ヨ。めえハよくてめえで拵えやしたなァ。
 このおいしそうな前座さん、あっしァ感心したネ。小咄を枕に振るハ落語のご定法みてえなもんだが、この若衆(わかいし)さんの三ツ四ツの小咄ァみんな初めて耳にするもんばっかしヨ。勉強なすってるねェ。いまゝでこんな人(しと)ァ初めてだゼ。てえげえ聞き飽きた小咄サ。そんなもんで座をとろうッてのハ客を小馬鹿にしてるッてもの。そこいくッてえと、春雨や雷太はえれえ(偉い)。その勉強振りなら先ァ大真打ちだゼ。本題は牛ほめ。あっしの勝手な好みかもしれねえが、与太郎咄ァどうもいけねへ。大名人圓生ハずいぶん与太郎咄なすっておいでだったが、いまになって聞き直すとゞうもネ。生まれつき頭の弱いのを笑い者にするッてのハ聴いてゝネ、笑うと後ろめたくていけねへ。風呂敷とか、あくび指南なんかのように、阿呆らしい咄の方があっしァ好きだねェ。
 お次の席は、けふの大招牌(かんばん。看板)桂小文治。この真打はしばや(芝居[※3])の仕形咄(しかたばなし[※4])が得意芸のようで、声色や身得や六方[※5]なンぞほんに歌舞伎座の舞台の役者が思ひ浮かぶようさネ。ト言ってもなんせ高座の座布団の上で演じるンだから、足ァ出しァしねへ。六方だって腰から上だけで、ちゃんと六方踏んでるよふに見せてくれるからうれしいねえ。
  仲入をおいて、跡(後)口の初手ハ紙切り。林家花姐さん。まだ若い身空だヨ。どっかで見たような顔。あっしのわりい癖で別嬪さん見るとめえにどっかで会ったような気になっちまう。ご本人がこの秋から高座に上がらせてもらえるようになりましてッて言っておりやしたし、そのめえは楽屋の見習いを一年半ばかしゝておりましたッてことだから、どっかの寄席で顔を見てたのかもしれねえ。干支をいくつか切って、最後の〆(しめ)にお客の横顔をその場で切って見せるッてのハよかったゼ。あっしァこの芸は初めてヨ。工夫があってよござんすねえ。難しいことを逃げねえでやるッて根性があっしァ好きヨ。そいぢャなきァいけねえ。高座に上がらせてもらえるまでに十三年の修業をしたッてえから、感心ぢァねえか。いまの若いのハ楽な方行くのが利口だと思ってる節がありやしょうが、そいつァ不精ッてことだからねえ。お花姐さんのほんの芸はこれからが修業なんだろうが、根性がありやしょうから先が楽しみだネ。なんたって紙切りッて芸は、お客に注文もらって出来ませんッて言へねえンだからたいへんだが、思やァ世の中なんの仕事でも出来ねえッて言ったがそれが最後ッてもんだ。玄人ッてのは厳しいのがあたぼう[※6]。素人がおよびもつかねえことをいとも軽々とやってみせて初めて玄人ッて呼ばれるものサ。
 けふのトリはもいっぺん小文治真打の出。噺ァご存じ幾代餅サ。聞き慣れた噺だが、後衣(きぬぎぬ)の別れのとき、幾代太夫に「主ハつぎはいつ来てくんなますかえト尋ねられ、搗米屋(つきごめや[※7])の若者(わかいもの)の清蔵ハぱッて手を突いて野田のしょうゆぅ(醤油)問屋の若旦那とハ真ッ赤な啌(うそ)トてめえの身分を明かし、裏を返しに来るにァまた一年身を粉(こ)にして働いて金をためト白状すると、その真心に打たれた太夫が「来年三月ねん(年季)が明けたら訪ねて行くから女房にしておくんなまし、と語る下りァあっしァ不覚にも目頭が熱くなりやしたゼ。知れた咄よッと啌ぶくハ簡単なれど、芸がまずけりァ只の筋なぞり。聞き手をしんみりさせるあたり、知らず\/聞き入らせる力だねェ。
  やァほんに白瀧さん、いゝ席に寄せさせてもらいやした。お礼申しやすゼ。本業の方の客になれもしねへあっしァどうも申しわけがなくってねいけねへ。でも、また寄せさせてもらいてえ。これに懲りずに開いておくんなさいナ。お頼み申しやすゼ。

【附(つけた)り】
[※1]苦しがり。貧乏で苦しむ者、の意。江戸語。〈八重霞曽我組絲〉文政「女房は本所の松坂町で相も変わらぬ苦しがり」
[※2]上(かみ)。上手(かみて)、の意。客席から見て舞台右手方向。左手方向は下手。上手に上位の者が、下手に下位の者が位置するのが一般的決まり。
[※3]しばや(芝居)。江戸弁。しばゐ、の発音ともども使用されていた。
[※4]仕形咄(しかたばなし)。身振り手振りでおこなう咄方。落語、講釈でおこなわれる。仕方話とも表記された。〈御国入曽我中村〉文政「おらア仕形咄でまだ踊つてゐると思つたら」
[※5]六方。歌舞伎用語。近世初期に台頭してきた六方男達(だて)などの侠客や伊達者の異装を歌舞伎の荒事にに取り入れた、勇壮、伊達の所作を言う。六方を踏む、または振ると使う。手を振り、高く足踏みする芸。初期は舞台に登場するときの所作であったが、享保末頃より引っ込みの芸となる。〈源平雷伝記〉元禄「立髪にて六方振り出づる」
[※6]あたぼう。江戸語。当りめえだべらぼうメ、の省略語。「べらぼう」は「べらばう」「べら坊」と書く。寛文十二年春に大坂道頓堀に頭が光り、目が赤く、頭の形が猿のような異形の人形の見世物が出たのがこの語の始まりと言われる。べらは飯の意、坊は賤しめて言う表現なので、穀潰しの意。馬鹿、阿呆の意味で使われた。これから出た言葉に、べらんめえがある。〈紋尽五人男〉文政「こいつがごねたら(死んだら)おらが仲間はこゝにはゐられめへ」「あたぼうよ」
[※7]搗米屋(つきごめや)。江戸の町では玄米を精白して食べたので、それを職業とする稼業があった。使用人を置いて店としておこなう他に、体一つで町をふれ歩き大店などでそこの家の臼と杵で賃仕事として搗く者もいた。重労働だったので、雪国越後出身者などが多かった。

2008年12月 8日 (月)

【番外】川柳ひとり柳戯溜(やなぎざる)(十一)

   長袴 たくし上げて乗る 内匠頭

 師走ッてへバ忠臣蔵ヨ。これやってりァ江戸のむかしッからしばや(芝居)は食いッぱぐれしねえそうだが、平成の御代になってもその神通力はかすれねえで残ってると見えらァ。あの松の廊下の刃傷沙汰を餓鬼の時ぶんに活動で見て、ずいぶんへんなもん真面目くさって穿いてるぢァねえかと可笑しかったネ。長袴ヨ。なんであんな動きのわりい(悪い)もん穿くのかねえ。あれからなんべん忠臣蔵観せられたかわかんねえが、そこンとこ咄てくれたもんにャあ、いっぺんも出会わねえ。ずっと謎ヨ。ところがちか比(頃)六十余の手習いでちっとばかしお江戸の勉強したら、その謎がとけやしたのサ。なんと喧嘩させねえ工夫だってェからお笑いヨ。歩くときァ左右それぞれの手で長袴の太股ンとこを持ち上げて足ィはこばねえとからまって転ンぢまうらしい。両の手は空かねえから、喧嘩で殴りかゝることもしにくかろうッて算段だッてえから、おもしれえ。大名だなんだッて言っても、元は野に寝て戦(いくさ)に明け暮れてた荒くれ士(さむらい)。ついこないだまで、敵味方に分かれて命の遣り取りしてたンがハイ戦は終名古屋になって徳川さんの皆さん手下。これからァ仲良くッたって、怨念悔しさ憤り、いろ\/あろうッてェ腹の内さァね。でだ、あの長袴、あっしァてっきり千代田のお城内の控の間かなんかで穿きかえるのかと思ったら、なんとそれぞれてめえの上屋敷から乗物[※]で来るときに穿いて乗る決めになってンだッてネ。あのなげえのを膝の上までたくし上げて乗ってンだッてえから、人さまにァ見せられねえ態(ざま)。内匠頭も上野介も、ともに素寒貧(すかんぴん)の膝小僧抱えて乗物に揺られて来てたんだゼ。笑ッちまうけど、情けなくもあるナ。

【附(つけた)り】
[※]乗物。戸がついた駕篭状もの。武家や上級の僧侶用が使用した。町人や下級武士が乗る竹で作られたものは駕篭と呼び、それには戸はついていない。

   老中は もみくちゃにされ 登城する

 江戸の町ッてのハなんだッてね。走ッちァいけねえンだってネ。走るトなんだ\/なんかあったかッて人が跡(後)追っかけて集まって騒動になるンでご法度になってたそうだゼ。ところがかならず走らなけりァなんねえッて決められてた人もゐるのヨ。なんとそれが幕府の老中だってえから、これお笑いヨ。もちろん、てめえの足で走るンぢァねえヨ。あのお方たちァ当然乗物でご登城ヨ。そんとき、走れッて決まりになってたんだそうだ。露払いからどん尻まで結構な大人数の行列で登城するンだが、その一団が二列になって一斉に走ってるンだゼ。こいつァ大笑いの見もの。大将の老中の姿は戸を立った乗物ン中だから外からはうかゞえねへ。そいでも人の担いでる乗物だから、走りァ左右に揺れるだろう。中ぢァもみくちゃだゼ。
 なんで毎回走るンだッてえと、この理由(わけ)がいゝねえ。普段しず\/と隊列が歩いてゐて、一朝事が起きたときだけ走りァ、世間があッ老中の乗物が走ってる、こいつァなんか一大事が起きたなッてんで、江戸の町が騒然とする。そんなことになっちァいけねえから、なにごともないときからいつも走ってゐりァ、何か起きても世間を騒がすことがねへッて気遣いだってえから、あっしァ感心したねえ。

2008年12月 7日 (日)

養生贔屓見世巡(ほねやすめひいきのたなめぐり)

 暮六ツッ比(頃)に、牛庵の兄哥に鍼ィまた頼みやすぜト伝えてあるンで、それをけふの臍(ほぞ)にして出かけ、はなァ浅草田原町から雷門の方へ鳥渡(ちょいと)たどりァ目指す尾張屋本店ハすぐそこ。こないだまで通い詰めのお店(たな)も尾張屋だが、ありァ飯田橋。こっちァ泣く子も黙ろうッて浅草ヨ。文句あっかッてとこダ。狙い目はまた\/泣く子もだまろうッて霰(あられ)蕎麦サ。空ッ風が吹いてきて、こいつゥ手繰ンねえで江戸ッ子はどうすんのヨ。だろう。青柳の貝柱ァ散らしてさァ、季節の蕎麦ヨ。こないだァ松茸逃しちまったから、けふは遅れをとっちァなんねえッて意気込みヨ。見世ェへえって角袖脱ぐ間も惜しく、姐さんに「霰、あるかいッて訊きァ「ハイございますよト間髪入れぬ気持よさ。そいつォ一丁と誂えて寸時(ちょいのま)待ちァ「ヘイお待ちト出てくる素早い仕事。客の気ィそらさねえ間合いのよさがあっしァ好きだネ。また丼がいゝぢァねえかい。小振りでねェ。よけいな色だの柄だのへえっちァいねえ。口も立ち気味、広がっちァいねへから、高台の糸きりに四本(しほん)の指ィかけ、縁にァ親指をかけりァ腰が落ち着いて、ぐらつくこたえねえ腰の定まった丼だゼ。江戸の蕎麦の丼ァこうこなくちァいけねえ。机の上に置いて犬喰いするようなはしたねえ真似は江戸ッ子のするこっちねえからネ。小粋に丼片手に持って、背筋しゃっきり伸ばして、ツツッと手繰って欲しいもんだゼ。丼ン中ァ見りァ色紙(しきし)に切った海苔の上に、この尾張屋の大将肝入りの小柱ッたって親指の爪ッくれえありそうな大星ぞろいが、丘になり、その上におろし山葵のとんがり天窓(あたま)。この組もの崩さぬように、脇から細切りの蕎麦ァ引出しちァツヽヽッと手繰り、そいつを二口三口、そうしておいちァ大星一個に山葵をちょいのせして噛みしめりァ濃くてさっぱりした旨味と歯ごたえ。あゝこいつァたまんねえ。魚ァ脂がのってるのがうねえなんて言ってる奴(やっこ)にァ柱の旨さァ百年たっても分かりはしめへ。ヘン態(ざま)ァみやがれッてのサ。鮪だの鰹だの鰯だ秋刀魚だなんて外海(げかい)暮らしの青瓢箪は、よほどのおっちょこちょいでなけりァへえっちァ来ねえとてつもなく奥がふけえ内海江戸湾のその奥ぢァ淡白を上等として、鱚だの銀宝(ぎんぽ)だの沙魚(はぜ)、蛤、浅蜊、青柳なんて、下司の脂たァ縁切りとんぼのさっぱり野郎しか上品(じょうほん)とはしなかったわけヨ。脂がうめえと思ってるうちァまだ舌ァ青いゼ。
 あゝ旨かったトお代払って、霰ァいつッ比までありやすかねェト訊くと、去年はひと一月もやんなかったねェと女将と帳場が顔を見合わせるぢァねえか。こゝンちの大将は、小柱にァ滅法界目が厳しい。いゝ大星が入ンなくなったら、その日でジャンよ。あっしも去年は二遍喰えなかったと思ふゼ。

    晴天で霰を手繰る江戸の蕎麦

  飯田橋の蛤花魁も気になるが、こっちの霰花魁も目が離せねへ。腰がいてえなんて言って九尺店でくすぶってるわけにァいかねえヨ。こいつァなにがなんでも牛庵の兄哥の鍼でお助けねがわなけりァなんねえッてンで、梯子の二段目ハ牛込柳町。刻限きっかり、兄哥の見世の角行燈の灯があったかく見える暮六ツに、こんちト面(つら)ァだしたッて段取り通り。腰の左右に、何本打ったか。かずえ(数え)らんねえほどの鍼を打ちこみ、ずしんと響きのくるのを探ってもらう。けふの鍼は、こっちの凝りがゆるみだしたがためか、鍼を十本くれえ躰に入れてるッてのに、うっすらと眠くなるここちよさ。だいぶ効いてきたッてことだろうねェ。前は凝りの形がぼやけていたが、けふは凝りの輪郭がはっきりしてきましたゼと兄哥のお詞。打たれてるあっしもそんな感じヨ。なんか明日が明るいッて気分。気が湧いてきたンで、一気に景気をつけてやろうッて目論見で、流しの乗物拾い、麹町ハ善国寺坂へ行ってくんなト飛ばす。一時の景気と違い、いまのお江戸の夜はしょぼくれてねェ。こいぢァいゝ見世ァ潰れやすゼ。打ち水の石畳踏んで格子を引きァお馴染みうの字、秋本ヨ。この見世を紹介した雑誌もテレビも見聞きしたこたァねえと思っていたら、そうした下司のもんはお断りッてことらしい。だから知るしと(人)は知るッてわけで、いっぺん覗きになんて、冷かしまがいのミーハーが来ねえのがこゝンちのよさヨ。使いこまれた数寄屋の造作がまずあっしァ好きヨ。こざっぱりが調子の高さで決まってやすからねェ。肝心要の蒲焼ァ焦げ目つけるようなドシはしねェし、身はふわ\/皮はとろ\/。そしていつも感心するンは、山椒の粉サ。こゝンちの山椒はほんに細かい粉だぜ。余所でこんだけ繊細な粉にであったこたァねえ。お重で頼むと、二段重ね。下に蒸らしてねえアツアツの炊きたての飯が真ッ白く光って湯気立ッてらァ、上の段には綺麗な蒲焼ヨ。タレのかゝった蒲焼で舌を堪能したら、次の一口は炊きたての銀しゃり。ふたゝび味覚が鋭くなった舌で蒲焼を味わひ、そいでご飯。このくりけえしで、楽しむのが秋本の贅サ。

    蒲焼ハ善国寺坂のうの字なり

  あゝ、けふもまた百日(ひっかにち)ほど生き延びたゼ。骨休め、骨休め。

2008年12月 3日 (水)

【番外】腰必殺鍼師牛庵(よわりごしひッさつはりしぎゅうあん)

 三四日にいっぺんの牛込詣。去年のいまの冬ッ比(ころ)、永の山住に別れを告げ、ふるさとお江戸へけえったハいゝが、そンとき痛めた腰が夏の冷房で冷えに冷え、すっかりいまぢァ座骨神経痛の長患い。あっちの揉み療治で五へん十ぺん、こっちの整体で八ぺん九へん。通い詰めちァみたものゝ、いっときよくてもすぐ次ン日にァまた元の木阿弥、立ち居も儘(まま)にならぬ体たらく。腹の具合も並ぢァなく、通じも艱難辛苦の冴えねへ態(ざま)。気圧療法士で鍼灸師、牛込の兄哥(あにィ)にもいっぺんおすがりすべえとの通い詰め。思ひかえしァもう十年、断腸の激痛で危篤になり、割腹手術でどうとりとめたかこの命、そンときつないだ腸が寸たらず。そいつが腹を内からひっぱるか、とっても取れぬ痛みの病。かてゝくわえて弱った腹筋。腸の重みで腹の底にァ疝気の痛み。ずっと抱えて来たこいつらが、座骨神経痛でひとつにまとまり、仕上げの腰痛になったぢァねえかと素人ながらも患者の我が身。お医者もおよばぬ内からの思案。押して気を送りこむ気圧の療法、兄哥もなんべんやってもすぐにぶりけえすあっしの痛みに、こいつァやっぱり鍼がよござんしょト打った鍼が十本十五本。腰骨と大腿骨の間を深くさぐって響きを目ッけ、腰のまわりも押してやわらげ打ち込む数本。ずしりと響く重い刺激、これが鍼の真骨頂。こいつを三四ッかにいッぺんツ繰りけえし、やっとどうやら楽になりそうな先が目えてきたけふこの比(ごろ)。やっぱ兄哥は合気道の達人、人の躰の気の流れェ、よッく知っておいでヨ。なんとか元の歩ける躰にたちかえり、来る正月迎えてえもの。気ィぬかずモ少しの辛抱の牛込通い。腰の痛みィみごと消してもらいやしょう。行きがけの駄賃がわりのだばし(飯田橋)の蛤きしめん。こいつの昼も楽しみのひとつ。思やァ悪くねへ詣三昧サ。

  牛込柳町治療院 http://www004.upp.so-net.ne.jp/tajima/

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