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2008年8月26日 (火)

【番外】続しゃらッくせえ

 芭蕉は隠密だったッてえ噂がいっとき流れたことがありやしたねェ。隠密かどうかハあっしァわからねえが、その旅筋を見ると、なんだなト思ひやすゼ。水は高きより低きに流れるッて言ひやすが、文化なんてもんがあるとすりァそいつも高いと思ってる方ッから低い方へ流れるト言ふか、低いと思ってる方が自分たちより高いと思ってるとこのことを有り難がって、一所懸命ひっぱり込もうトしたり、かぶれたりいたしやすナ。芭蕉の大将ハはなァ上方から東夷(あづまゑびす)のお江戸へ下っておいでなすって、ひと儲けッて思ったンでやしょうかねェ。でも桃青なんて号は江戸ぢァ洒落にもなんにもなんねへ。青い桃がどうしたいッてェやつヨ。きっと鼻もしッかけてくんなかったンだらふネ。で、こいつァ出会い頭に一発喰らわすようなはったりのきいた名にすンべえッてンで、いまで言やァバナナッてことの芭蕉なんて、唐変木みてえな名ァ名乗ったンでやしょうヨ。ふつうぢァつけねえもんナ、こんな名。そのずッと跡(後)の幕末になると狂歌の連中が、四方赤良(よものあから)だの宿屋飯盛(やどやのめしもり)だの、恋川春町(こいかはゝるまち)だのッてェふざけた名ァつけて互いにおもしろがっておりやすが、みんな洒落の内ヨ。芭蕉なんて木だか草だかわかんねえようなもんァ南画の中でしか見ねえものでやしょう。はったりも効いてゐるが、松尾のとっつあんのあこがれが読み取れるよネ。幕末の論語読みが恥ずかしげもなく中国かぶれの名を名乗ったのとそっくりだし、明治からこっちも西洋かぶれが臆面もなく、お仏蘭西\/ッて口にしてた恥ずかしさを思ひだしやすゼ。戦後からァこんだァ手のひらけえして亜米利加だの紐育(ニューヨーク)だのッてネ。湯屋ァ行ってひとッぷろ浴びてくるようなもんで亜米利加ついてしょんべんひってとんぼがえりでけえってきて、あちらでハなんて得意満面の知ったかぶりで一席ぶつ手合いが多かったねェ。こりァまだつゞいてるがネ。
 芭蕉の大将がお供ォつれて奥の細道ィ旅だつ画がありやすが、あれが実正(ほんとう)なら、コヲ鳥渡(ちょいと)待ちねえだゼ。すみごろも(墨衣)ッて言やァ誰が見たって坊さんサ。頭だって丸めてる。坊さんッてのハ誰でも勝手になっちまっていゝもんだッたのかねえ。町人は町奉行所、坊主神主は寺社奉行所と扱いが厳重だったはずだゼ。どっかで得度を受けたのかねェ。そうでなけりァもぐりヨ。勧進帳の義経主従みてえなもんサ。関所はどうやって通ったのかねェ。芸人は関所のお白州で芸のひとつも披露すりァ「通れッ、てなったそうだが、坊主は形(なり)だけで通してくれたのか、般若心経のひとつも唱えてみせたのか。どうなんだろうねェ。
 川柳もそうだが、俳句ッてのも師匠の点つけにァ一句についていくらッてえ銭がかゝったそうだッてネ。そいぢャなきァ喰えねへものネ。芭蕉が田舎の弟子ッてえかご贔屓ッてえかに送った手紙が出てきたことがあったそうで、それを読んだ誰だったかゞ言っておりやしたが、点つけするその作をべたほめしてるッてネ。なか\/の商売人さネ、芭蕉師匠ハ。本気で鍛えてやろうなんてやったら、みんなげんなりして離れちまものナ。そうやってほめられて、ありがてえッて弟子が、遠くみちのくまでの道筋に点々とゐたンでやしょうねェ。奥のほそ道読むと、あっちこっちで田舎大尽ンとこに泊まって句会を開いたりしておりやすもんナ。江戸でじゅうぶんな弟子だの贔屓がいりァ、そんなどさまわりするこたァねへッて言ふか、どさ行ってる間ァなえはずヨ。その道筋が上方ぢャなくて辺鄙な方ばっかりッてのも合点がいきやすナ。川柳の柳多留(やなぎだる)なんぞ、続編\/トとめどもねへくれえ出るほど、句が集まっておりやすネ。やっぱり江戸は洒落の地なのヨ。深刻ぶったり、乙に澄ましてるトなんでえあいつァッて相手にしてもらえねへのサ。
 和歌も業平どまりだネ。江戸で幅ァきかせたのは狂歌サ。川柳も狂歌も、洒落がわかンねえとつくれねえし、おもしろみがわかンねえ。こう言ッちァなんだが、田舎のお人は真面目が上等だとてんから信じ込んでるのが多いやネ。かろみッてのがわかんねへ。不真面目だの莫迦にされただのと思って怒ッちャったりする。それを江戸ッ子ァ野暮だねェって言ふのヨ。
 そんな目で見るッてえと、芭蕉先生の句はたしかにありがたがり屋さんにァ受けるハな。きふの米にこまることのねえ田舎のお大尽が、古池やッて聞いたり、田一枚植ゑて立去る柳かなゝんて読んで、あゝこれが風流か、これが分かるようにならねへトおくれをとるナなんてうなずいたりしちまうのサ。風流もいゝけど、おもしろみッてえもんがねえヨ。そこんとこまで突き抜けて、からッとしねえと江戸ぢァねへトあっしァ思ふがネ。
 一茶の句を俳句ッてがっこ(学校)ぢァおせえてくれたが、ありァ川柳でやしょう。軽いもんネ。雀の子そこのけ\/お馬が通るだの、痩せ蛙負けるな一茶こゝにありなんて、洒落ヨ。ちょいと田舎ッぽいけどネ。だから、あの貧乏百姓で旅する銀を持ってたとハ思えねえ一茶が、信濃の山奥からしょっちゅうお江戸へ上ってきてゐたわけサ。現金なんかとハゑんのねえ百姓が路銀だの長逗留の宿賃だのどう工面したか。俳句ッてのは、しめえにァ博打のようになったッて言ひやすからネ。句会やって、いっち点とった句をつくった奴が賭け金を総取りしたそうだからサ。江戸のことかじってみると、いろンなことが見えてきやすなァ。がっこでおせえねへことばっかしヨ。
 サテ不調法ながら、芭蕉さんと一茶さんに鳥渡ご挨拶しておきやしょう。

   ほそ道を門づけもせぬ墨衣

   江戸詣ひねって銀(かね)をひねり取り

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コメント

芭蕉さんの通行手形と路銀がどうの、一日何里歩いたとか隠密だったというお話、なにかで目にすると面白いなーと思いました。
なんであれ、お江戸の風をふかせれば、寝食にこまらず度が出来たのでしょうね。

moon3風知草姐さん江

 めえに、芭蕉が奥の細道の旅で諸経費いくらかかったかを細かく調べて本になすった女性研究者がおりやして、その本、半分ぐれえ読みましたがなんだか疲れて途中でやめちまいやした。

 いまでも地方の方にとっちァ東京は善くも悪くも気になるとこのやふだが、徳川時代にァ地方の、それも素封家たちァ公事(裁判)でもなけりァ江戸へ上ることなど容易にァできやせんでしたンで、江戸の俳句の宗匠ッてききァ光輝いていたンでやしょうねェ。それまぢァ直接会うこともできず、手紙でじぶんの句作を見てもらっていただけでやしょうから。その江戸の著名だと思ってる先生がわざわざ訪ねて来てくれる。これほどうれしいこたァありやせんでしょう。
 江戸ぢァ芭蕉ッてのは、いまのあっしらが思ふほどの評判ぢァなかったような気ィいたしやすヨ。芭蕉の、雪見の句の石碑が三囲神社にあるそうだが、その風流ぶったとこを江戸の狂歌の連中が三人ほど、からかって本歌取りの川柳にしておりやす。芭蕉の深刻ぶったり、風流ぶってる作風は、かろみこそ粋とした江戸人にとっちァ野暮に見えたンでやしょうねェ。

  喜ンの字

兄貴兄貴、こないだてれびで
 芭蕉は「隠れキリシタン」の旅をしたのだとか やってましたよ。

なんでも 巡った土地がことごとくキリシタンが隠れてたり、そういう大名の息のかかったトコだったりするらしいなど。。
  色々やってらしたンでしょね。


それはそうと 今の時代でも
 洒落のわかんない一辺倒な頭の人 結構いますね★  こないだ怒られちまいましたよ・・・  むきーーー

moon3ひとみうぢの姐さん江

 そいつァ観たかった。見落としたンは残念だッたなァ。
 芭蕉は幕府の隠密ッて咄もありやすから、切支丹のつなぎのふりして、密偵やってたのかもネ。そいでそつを幕府に告げる。幕府は影で処分をする。紀行記が旅から何年も跡(後)にだされるのも妙な咄だもんなァ。その間に、片づけてンぢァねえのかねェ。

 洒落がわかんねえのッてのは、掃いて捨てるほどおりやすゼ。そうかと思ふと、分かってねえのにご本人は通だと思ってンのもいたりして。やゝっこしいゼ。

 喜ンの字

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