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2008年8月31日 (日)

【番外】恋の大川迷いの月

 こないだある別嬪さんが日記欄で粋な恋を歌のようにお書きヨ。そいつゥ刺激受けやして、あっしも一丁ものにしてみんかと、負けずにけえて見たッてわけでして。上手くできてりァお慰み。いかゞでござんしょうかね。

 けふ行こうか あす逢うか

 行くも罪なら 逢わぬも罪

 添えぬふたりの仲なれば

 いっそこのまゝ別りょうか

 月にかゞやく大川に

 逢瀬の糸口聞く今宵

 男なみだの秋の風

【番外】川柳ひとり柳戯留(やなぎざる)(三)

  猪牙(ちょき)ッてェ吉原通いの舟ァ揺れるそうですなァ。けつ(尻)に猪牙だこができるくれえでねえと、通たァ言へねえとか。あすびの道も容易ぢァねへヤ。なんせあの流れのでっけえ大川(隅田川)を柳ばし辺(へん)から山谷堀まで飛ばしてさかのぼって行こうッてんだから、揺れてあたりめえ。左右の縁ィしっかと握って体ァおさえ、「ヨシせんど(船頭)さん、ぐい[※]ッと堀ィやっておくんなト酒手ェぎらりと光る小粒でも放りァ、跡(後)は櫓をしならせて飛ぶようヨ。なんせ吉原へちっとで早く行こうッてんで、浪きりのいゝように艫(とも)から舳先ィ猪の牙みてえにすっぱりと尖らせた造りでやすからネ。乗り心地なんてしみッたれたこと言ってねえのヨ。舟遊山ぢァねェやな。じょろ(女郎)買いの決死隊が乗って行こうッて代もんですゼ。

  猪牙に酔ひ 中宿で寝てる 初男(うぶをとこ)

 馴染みィ重ねて、遊びの色もいつしか深き濃さ。年(ねん)が明けたら[※]おまえのとこへ、きっと行くから待ってゝおくれ。それまで待ッちァいらンねへ、ほかの男に惚れるンぢァねえか。ばかァお言ひぢァないよ、あっちの心ァ主(ぬし)さんひとり、ホレこのめえも起請書いて血判押して。分かっちャゐるが明日にでも請け出されでもすりァ、おりァ死んでも死に切れねへ。今宵も念押し駄目押しに、惚れて通うは恋の闇。たっぷり流れる大川の、ありあまった水さえも、胸の炎を消しもせず、切る浪音があおるだけ。「船頭、もっと早くやれねえけえ。

  大川を 馳せのぼる 猪牙の闇

(※ぐい。急ぎ、の意。ぐい呑みなど。急ぎの仕立てをぐいづくりと言った)
(※中宿。山谷堀を上がったところに立つ船宿や引手茶屋。吉原へ入る前にいったんこゝで衣服を着替えたりした)
(※年(ねん)が明けたら。吉原のお女郎は年期奉公。十年を限度とした契約。数え二十七歳で年季が明けるのか普通。この年期奉公の期限を十年と限ったのは、人身売買を禁じるのを目的に商家や職人親方への奉公期限を法で十年と定めたことに由来する。

2008年8月29日 (金)

【番外】川柳ひとり柳戯溜(やなぎざる)(二)

 新吉原さかんな江戸時代は、雷門前の並木町辺(へん)には、吉原へ行く男たちを目当てに馬を引いた馬子が待ち受けていて、「どうだねェ、馬はト声をかけた。白馬で大門に乗り着けると、いっち幅が効いたという。その雷門前、いまはずらりと俥(くるま)が並んで観光客は待つ。飛び乗って、中ッ腹[※]の兄哥(あにぃ)に「中ァ行ッつくれいト言っても、その中はすでになしサ。

      雷門 むかし馬子で いま俥

(※中ッ腹(ちゅうっぱら)。勇み肌の男、の意。火消しの鳶、任侠の男など)

 江戸の昔で言えば、大川から山谷堀をとっついたとこにある待乳山聖天は歓喜仏の寺。境内いたるところに、象徴の大根と巾着が飾られていて、歓喜をそそる。

       聖天[※]は 後家が往つては きつい毒

(※待乳山聖天 http://www.tctv.ne.jp/matuti/index.htm

2008年8月26日 (火)

【番外】川柳ひとり柳戯留(やなぎざる)(一)

  しかつめらしき俳句よりにやりと穿(うが)つ川柳に、ぶらねえ江戸の洒落がある。金々嫌いの江戸ッ子が、和歌の俳句のとあがめたてまつる上方文化トさらりと別れ、本音ェ吟じて笑って生きる。これぞ意気を芯にハリで世間を渡るきゃん(侠気)で粋な男伊達。宝暦全盛、幕末までに江戸の本に載った川柳その数ざっと二十万句を越え、これぞ句作。大浪小波打ち寄せる砂のつぶか星屑か、選者柄井川柳(からいせんりゅう)選びに選んで書に著したハその名も名高き柳多留(やなぎだる)。柄井亡き跡(後)代を重ねて幕末まで、版行合わせて百六十七篇。それゆえついた句名がかの川柳。てまえ喜三二畏れも知らず、たったひとりで句作を連ね、大向うを張ろッて算段。見上げたもんだよ屋根屋の褌。志は高けれど底は抜けたるさまなれば、こゝに名付けて柳戯留(やなぎざる)。サテいかゞ相成りますことやら、ご喝采。

  秋もそろ\/初ッぱなのひと月が終わろうッてのに、雨ばっかし。すっきりした月を早く拝みてえものサ。で、まず一句、洒落てみやした。

  名月に 障子をとざす かるた舟

(※かるた舟。江戸語。中でカルタのめくり博打をしている屋根舟などをこう呼んだ。博打はご法度なので、陸では捕まる。そこで、大川(隅田川)の脇の水路などでやっていた)

 むかしをとこありけり。在原業平と言えば、色男。かず\/の浮いた噂で知らぬ人なし。ついに帝の想い人に懸想して、京の都にいられなくなり、草深き東の国へ落ちて来たそうで。

  業平は 東下りで 蜆喰い

(※浅草の吾妻橋で浅草川(隅田川)を渡って東へ進むと、すぐに小振りな橋を渡る。業平橋。その辺の水路で採れる蜆を業平蜆と言って、江戸で一番の味と有名だった。なぜ業平が蜆を食べにようになったかは、言わずもがななり)

【番外】続しゃらッくせえ

 芭蕉は隠密だったッてえ噂がいっとき流れたことがありやしたねェ。隠密かどうかハあっしァわからねえが、その旅筋を見ると、なんだなト思ひやすゼ。水は高きより低きに流れるッて言ひやすが、文化なんてもんがあるとすりァそいつも高いと思ってる方ッから低い方へ流れるト言ふか、低いと思ってる方が自分たちより高いと思ってるとこのことを有り難がって、一所懸命ひっぱり込もうトしたり、かぶれたりいたしやすナ。芭蕉の大将ハはなァ上方から東夷(あづまゑびす)のお江戸へ下っておいでなすって、ひと儲けッて思ったンでやしょうかねェ。でも桃青なんて号は江戸ぢァ洒落にもなんにもなんねへ。青い桃がどうしたいッてェやつヨ。きっと鼻もしッかけてくんなかったンだらふネ。で、こいつァ出会い頭に一発喰らわすようなはったりのきいた名にすンべえッてンで、いまで言やァバナナッてことの芭蕉なんて、唐変木みてえな名ァ名乗ったンでやしょうヨ。ふつうぢァつけねえもんナ、こんな名。そのずッと跡(後)の幕末になると狂歌の連中が、四方赤良(よものあから)だの宿屋飯盛(やどやのめしもり)だの、恋川春町(こいかはゝるまち)だのッてェふざけた名ァつけて互いにおもしろがっておりやすが、みんな洒落の内ヨ。芭蕉なんて木だか草だかわかんねえようなもんァ南画の中でしか見ねえものでやしょう。はったりも効いてゐるが、松尾のとっつあんのあこがれが読み取れるよネ。幕末の論語読みが恥ずかしげもなく中国かぶれの名を名乗ったのとそっくりだし、明治からこっちも西洋かぶれが臆面もなく、お仏蘭西\/ッて口にしてた恥ずかしさを思ひだしやすゼ。戦後からァこんだァ手のひらけえして亜米利加だの紐育(ニューヨーク)だのッてネ。湯屋ァ行ってひとッぷろ浴びてくるようなもんで亜米利加ついてしょんべんひってとんぼがえりでけえってきて、あちらでハなんて得意満面の知ったかぶりで一席ぶつ手合いが多かったねェ。こりァまだつゞいてるがネ。
 芭蕉の大将がお供ォつれて奥の細道ィ旅だつ画がありやすが、あれが実正(ほんとう)なら、コヲ鳥渡(ちょいと)待ちねえだゼ。すみごろも(墨衣)ッて言やァ誰が見たって坊さんサ。頭だって丸めてる。坊さんッてのハ誰でも勝手になっちまっていゝもんだッたのかねえ。町人は町奉行所、坊主神主は寺社奉行所と扱いが厳重だったはずだゼ。どっかで得度を受けたのかねェ。そうでなけりァもぐりヨ。勧進帳の義経主従みてえなもんサ。関所はどうやって通ったのかねェ。芸人は関所のお白州で芸のひとつも披露すりァ「通れッ、てなったそうだが、坊主は形(なり)だけで通してくれたのか、般若心経のひとつも唱えてみせたのか。どうなんだろうねェ。
 川柳もそうだが、俳句ッてのも師匠の点つけにァ一句についていくらッてえ銭がかゝったそうだッてネ。そいぢャなきァ喰えねへものネ。芭蕉が田舎の弟子ッてえかご贔屓ッてえかに送った手紙が出てきたことがあったそうで、それを読んだ誰だったかゞ言っておりやしたが、点つけするその作をべたほめしてるッてネ。なか\/の商売人さネ、芭蕉師匠ハ。本気で鍛えてやろうなんてやったら、みんなげんなりして離れちまものナ。そうやってほめられて、ありがてえッて弟子が、遠くみちのくまでの道筋に点々とゐたンでやしょうねェ。奥のほそ道読むと、あっちこっちで田舎大尽ンとこに泊まって句会を開いたりしておりやすもんナ。江戸でじゅうぶんな弟子だの贔屓がいりァ、そんなどさまわりするこたァねへッて言ふか、どさ行ってる間ァなえはずヨ。その道筋が上方ぢャなくて辺鄙な方ばっかりッてのも合点がいきやすナ。川柳の柳多留(やなぎだる)なんぞ、続編\/トとめどもねへくれえ出るほど、句が集まっておりやすネ。やっぱり江戸は洒落の地なのヨ。深刻ぶったり、乙に澄ましてるトなんでえあいつァッて相手にしてもらえねへのサ。
 和歌も業平どまりだネ。江戸で幅ァきかせたのは狂歌サ。川柳も狂歌も、洒落がわかンねえとつくれねえし、おもしろみがわかンねえ。こう言ッちァなんだが、田舎のお人は真面目が上等だとてんから信じ込んでるのが多いやネ。かろみッてのがわかんねへ。不真面目だの莫迦にされただのと思って怒ッちャったりする。それを江戸ッ子ァ野暮だねェって言ふのヨ。
 そんな目で見るッてえと、芭蕉先生の句はたしかにありがたがり屋さんにァ受けるハな。きふの米にこまることのねえ田舎のお大尽が、古池やッて聞いたり、田一枚植ゑて立去る柳かなゝんて読んで、あゝこれが風流か、これが分かるようにならねへトおくれをとるナなんてうなずいたりしちまうのサ。風流もいゝけど、おもしろみッてえもんがねえヨ。そこんとこまで突き抜けて、からッとしねえと江戸ぢァねへトあっしァ思ふがネ。
 一茶の句を俳句ッてがっこ(学校)ぢァおせえてくれたが、ありァ川柳でやしょう。軽いもんネ。雀の子そこのけ\/お馬が通るだの、痩せ蛙負けるな一茶こゝにありなんて、洒落ヨ。ちょいと田舎ッぽいけどネ。だから、あの貧乏百姓で旅する銀を持ってたとハ思えねえ一茶が、信濃の山奥からしょっちゅうお江戸へ上ってきてゐたわけサ。現金なんかとハゑんのねえ百姓が路銀だの長逗留の宿賃だのどう工面したか。俳句ッてのは、しめえにァ博打のようになったッて言ひやすからネ。句会やって、いっち点とった句をつくった奴が賭け金を総取りしたそうだからサ。江戸のことかじってみると、いろンなことが見えてきやすなァ。がっこでおせえねへことばっかしヨ。
 サテ不調法ながら、芭蕉さんと一茶さんに鳥渡ご挨拶しておきやしょう。

   ほそ道を門づけもせぬ墨衣

   江戸詣ひねって銀(かね)をひねり取り

2008年8月23日 (土)

【番外】しゃらッくせえ

 小学手習指南所の五年生ッ比(ころ)だったかねェ。おッしょさん(師匠)が黒板に、古池やかはづ飛び込む池の音ッてお書きになってサ。これが名句だッて言ふのヨ。言ふまでもねえが、芭蕉の俳句さネ。
  そんときあっしァてやんでえッて思ひやしたゼ。どこがだいッてね。ほめるやつに言はせりァ、静かなんて詞ァひとつもつかってねえのに、蛙が飛び込むちッせえぽちゃんッてえ水音が聴こえる静かさだッて分かるぢァねえかとネ。またそんなこといち\/かみ砕かなくたって、その感じが伝はるだろう、そこがすごいのよッてネ。生きるの死ぬのなんて人の苦労を越えたとこで一句詠むとこが達人だとかネ。でもあっしァそんときも思ったしいまでもその心持ちァ変わッちァいねえが、少しばっかし有り難がり過ぎねえかッてェことヨ。なんでもそうだが、有り難がッちまうと、なんにも見えなくなッちまうもんだゼ。
  源氏物語だってそうサ。美しい王朝文学なんて、てんから思ッちまうと、どういう場であいだけのもんが書かけたのかッてえ不思議が見えなくなッちまうゼ。平家の世で、その平家の懐ふかくにゐた紫式部が、滅ぼした源氏にやたらと花ァ持たせる物語をよく書かせてもらえたもんだし、帝の御簾の内の秘め事のあることないこと書いてよく許されたなッて考えるとおかしなことばっかしヨ。それに紫式部が死んだ跡(後)で、こんなンがありましたッて世に出てきたわけぢァねへ。書いてた当時から評判になってゝ続きが待たれたッてんだから、妙な咄ヨ。そこんとこよッく考えねえと読み違ッちまいやしょうヨ。
  司馬遼太郎ッて物書のとッつあんがおりやしたろう。あのお人が、空海の風景ッて上下二巻の本お書きになりやしてネ。どうもいろ\/かんげえると、空海は妙だと言ふのヨ。大師さま\/ッて丸呑みに有り難がってねえのがいゝやネ。そいでどうもうさんくせえとこがあるトかいておいでサ。その逆もありやすからねェ。つい先年のことだが、女子衆(おなごし)に人気のある優男風のある物書が京奈良の寺ァめぐってなんか言って歩ッてるテレビの番組がありやしたが、なに見たって美しいだの荘厳だのしかほめ詞しか言はねえ。腹の底からそう思って言ってるとしたら、物書としちァ怪しいし、商売で言ってるンなら世間だまくらかすのもてえげえにしなッてやつヨ。奈良京の寺がどういういきさつで建ったかァ考えたら、美しいだの荘厳だの有難い思ひがするだけぢァすまねえし、物書ならその先を読んで世間にしめさなくちァ役がつとまっちァいねへ。
 さっきの司馬遼さんの書いたもんも、眉に唾つけねえで読んで鵜呑にしちァいけねへ。竜馬の咄にしたって妙だゼ。郷士なんてもんは、土佐にかぎらずどの藩にとっても厄介者サ。てめえでいなくなってくれたら、ありがてえッて半端もんでやしょう。だから脱藩ッたってそれほどのこたァねへ。そんな風太郎が西や東へ走り廻る路銀がどっから出てたのかねェ。薩摩にしろ長州にしろ、関ヶ原から怨念のたまった徳川憎しといえどもれっきとした藩が表だって動くわけにァいかねえわサ。そこへちょいと出ました三角野郎ッてわけで、使いッぱしりにァしめこの兎ヨ。これが気のいゝおっちょこちょいでさァ、勝海舟の野郎気にくわねえからぶッたぎってやるッてンで乗り込んでいって、勝の舌先三寸でころッと宗旨かえさネ。君子豹変するとも言えるし、骨がねへとも言える。
 きのふまでこうだよッて言はれてたことォほんにそうでやすかい、奇怪しかねえかいッて底の底ォ掘り返して、やっぱり違いやしょうッて見せてくれたのは、梅原の猛の爺さんだネ。あのお人の、秘められた十字架なんて法隆寺の実正(ほんと)を解いて見せた考えァよかったねェ。マ長ッぱなしになっちまったが、なんでもありがたがッちまうといけやせんよネ。本の世界だけぢァねへよネ。利休も、利益を休もうッて号(なづけ)だもんな。その意味たるやッてやつサ。マ与太咄ァこのくれへにして、芭蕉さんの蛙の句へ川柳で一句返しィ送るかな。

  大川や 身投げの波紋 すぐに消え

2008年8月22日 (金)

【番外】思った通りの大当たり

 なんか、道ィしらねへ運ちゃんに出ッ喰わすンぢァねえかと思っていたら、案の定ヨ。夕ッ方から雨だッてんで、さすがに雪駄ァ止めにして出てきやしたが、そいでも爪掛けなしの桐の駒下駄。やっぱり降られちァあんべえわりい。上野広小路で黒塗りタクを目ッけたんで、そいつゥ目指して手ェ上げたら、その手前に派手な塗り分けタクが一でえ(台)隠れていて、そいつがすいッと寄ってきやがッた。こゝからがけふのまちげえの始まりサ。ばたんトのって「駒形どぜうッて言ふッてえと、「すいません沖縄から出てきて運転手はじめたばっかしで、駒形どうじょう知りませんッとヨ。「道場ぢァねへゼ、どじょうだよ、泥鰌。「沖縄に泥鰌いないンですよ、穴子みたいなもんですかトきたネ。しょうがねえから、道案内引き受けて、駒形どぜう[※1]。ぽつり\/と降り出した中ァ傘ァ傾け駆け込みァ、中ァぎッしりの客のぞめき。こいつァ席のひとつもねえンぢャねえかと按じたら、そこは入込み、なんとか割り込みヨ。来る道中に、隣に大年増の粋な二人連れなんかゞゐてなんて思ったら、こゝでも思ひは大当たり。女子衆(おなごし)は女子衆でも、ずっと昔の地女[※2]の娘さんサ。楽しそうにどぜう鍋つゝいて冷酒の酌み交わし。わけえ鼻ッたらしの娘が黄色い声上げてあすんでゐるのは、十年早いよト言ってやりてえが、世の中成すこと終えたお歳とお見受けできる姐さんたちがふたりで酒ェ食べて[※3]楽しんでる図ァいゝもんですゼ。この日の本のお国にァ、男も女もろくに世間の務め果たさねへわけえ内に遊ぶのが多くて、あっしァ腹ァ据えかねておりやしたのサ。酒ェ呑んでも世間様に許してもらえる歳になるまぢァそこらであすンぢァなんねえのヨ。お隣の姐さんたちァ、こうして気が合う二人でこれるのは、年にいっぺんくらいなのッておっしゃッて、そりァ楽しそうないゝお酒サ。男も女も世の中の役割終えたら、こころおきなく好きなもん喰って好きな酒ェ楽しんでもらいてえネ。贅沢ァいらねえのヨ。起きて半畳、寝て一畳。人間そいだけあって、跡(後)はちょいと気にいったもん口にできりァ、それが仕合せッてもんだぜ。 おッと忘れるとこ。八月限りの美味がりやすよ、いまの駒形どぜうにァ。はららこの山椒煮。こいつァいゝぜえ。ご飯にかけて喰ふンだと言うが、こいつを酒のあてにするのも通ッぽくて洒落てやすゼ。醤油の加減も山椒の按配もさらりとしてゝ、忘れらンねえ味わいだゼ。泥鰌の卵がこんなに乙粋たァ思ひもしなかったネ。

【附(つけた)り】 [※1]駒形どぜう。創業1801年。泥鰌料理専門店。昔ながらの江戸町家造りの木造建物に風情があり、名高い店。http://www.dozeu.com/dozeu_fl/info/info.html

[※2]地女。江戸語。素人女、の意。

[※3]酒ェ食べて。江戸語。酒を食べると表現した。

2008年8月19日 (火)

【番外】耳保養

 陽気のせいか、こゝンとこ腰痛がひどくって座ってンにも難儀サ。ふくらはぎがうずいてしょうがねえ。いらつくもんだから、拳で太股叩いたり、ふくらはぎ揉んだりしたが、てめえでやって治るもんぢァねへ。その上ながびく暑さにへばってすっかり青菜に塩ヨ。で、牛込柳町に療治の兄哥(あにぃ)がゐるンで、おすがりしに行ったと思ひねえ。
 このお方ァ合気道のお人でネ。こういう人はなんだね。強がらねえヨ。静かなもんよ。そいでいて、躰にも気持にもぴしッと筋が通っておりやすネ。
 どうやらあっしの痛みァ冷えからきた座骨神経痛のようサ。なにぶんにも十四年も涼しい八つのお山で暮らしてきて、舞い戻ったこのお江戸で久々の蒸し暑さにデッ喰わしたもんだから、冷房三昧の日々ヨ。それが元になったみてえとなりァしけた咄だが、こらえらンねえものは仕方がねへ。で、半時の余も療治してもらって、いざけえろうと思ったら、金の鈴を転がすような澄んだ音色がするぢァねえか。なんと、鈴虫を飼っておいでヨ。しばらく聞き惚れやしたネ。心ォ洗われるようたァこういうことだねェ。で、駄川柳一句。

  すゞむしの 音に清めらる 娑婆の熱

2008年8月17日 (日)

居残夏介宵笹雪(ゐのこりなつすけよいのさゝのゆき)

 暑くってしょうがねえ。とうに文月(旧七月)にへえって半ばにもならふッてのに、夏の野郎どっかとゐのこって人の躰より暑い日つゞきヨ。むかしなら八ツもすぎりァ日もかたむひて涼しい風が吹いたもンだが、ちか比(頃)ァそこらじゅうが熱気のまンまヨ。出たついでに夕の時ぶんになったンで、暑さ払いに冷や奴ト根ぎしィ足ィのばしやした。根岸ッて言やァご存じ笹乃雪[※1]サ。こゝは言ふまでもねへが豆腐ばッかしの見世。三百十五年もやってゐるてえから元禄六年からだ。あきれるくれえ根(こん)のいゝ見世だゼ。
 山の手線はその名もゆかしい鴬谷で台下[※2]へ下りァものゝ一丁[※3]かそこらで、もう見世先。水が売りもんッてあかしに脇にァ名代の湧き水を蹲(つくばい)に落としてるッて仕掛けヨ。「はい、ごめんよット格子ィ開けりァ、法被(はっぴ)の下足のじいさんが、「へい、らッしゃいトお待ち受け。これがいゝねえ。あっしァ駒形と言ひこゝンちと言ひ、この下足番が出迎えてくれるンがいっち好きさネ。
  籐敷にどっかと腰を落ち着けて、まず誂えはぬる燗いっぽん。徳利はゆるやかな瓢箪形。白磁の肌に、染付でなゝめに笹乃雪の屋号が粋に入っておりやして、また合わせる盃がいゝ。形ァあっしのきらいなぐい呑みなんだが、焼締めの薄造り。唇への当りがもっさりしねへのが上等ヨ。よくぞこいだけ薄くろくろが引けやしたッてえ代物だネ。
  肴は、こゝンちにきて外せねへのがあんかけ豆腐。二鉢で一人めえ。この謂れはかの江戸の比(頃)、上野の山は輪王寺の宮様が召し上がって、こいつァいけるゼとおっしゃったかどうかは知らねえが、三太夫代りを持てッてンで、もう一碗召し上がった。それに因んでいまだもって一人めえふた鉢サ。一寸五分四方ぐれへの豆腐にあんがかけてあって、真ン中に溶きからしを落してある。二鉢ならべてみても、その落しからしの大きさが版で圧したようにおンなじサ。この辺が板さんの芸だネ。こいつゥ相手に酒をなめ\/してたのしんだンだが、あんの汁(つゆ)がもってえねへンでふた碗ともみんなすゝッちまった。まだ酒ァ半ば。で、次の誂えは、やッぱりこゝンちで外せねへ冷や奴。こいつが逸品だねェ。水気ばっかしの絹でなし、野暮でもさつく木綿でなしサ。まるで泡雪を四角にまとめたッて代もんサ。旨味が濃い豆腐なんだよねェ。よく大豆の味がしていゝ豆腐だなんてこと言ふ野郎がおりやすが、あっしァありァねへぜト思ひやすゼ。大豆の味がしていゝンなら、なにも手間ェかけて豆腐にこせえるこたァねへンだ。大豆を煮てでも炒ってでも喰やァいゝのヨ。豆腐は豆腐でなきァ味わえねへ味になってなきァ啌(うそ)だゼ。この余所ぢァ出会えねへ旨味の濃い豆腐に繊切り大葉、下ろし生姜、白葱の小口切りを薬味に、濃口醤油で喰ふンだが、薬味ィ替えるたんびに味わいが変わって、つい\/酒ェ食べる[※4]の忘れちまう始末ヨ。
  さて、仕上げはト。こゝまで豆腐尽くしでくりァ〆も豆腐がいっそいゝッてもんだゼ。そんだもんで、品書き繰りァうずみ豆腐の茶漬がのっておりやすッて寸法サ。うずみ豆腐とくりァこんながらッ八のあっしでも茶懐石のうずみ豆腐をつくったことが一度や二度。いっぺんなんて恐れを知らぬ所業で雑誌のカラー頁を飾ッちまったことさえありやすのヨ。さて笹乃雪のうずみ豆腐、どんなしつらえで出てくるか。なんとも楽しみ。やがて運ばれてきた碗にァ釜飯張りに木の蓋。そいつゥ取ると、飯のうえにァ一面に細かく砕いた薄茶色のもんが振られてる。豆腐の味噌漬けか。こいつァ醍醐(チーズ)のように味姿を変えやすんでネ。一口すゝると独特の香り。あとは一気にかッこんで、はいごッつォさん。あゝ今宵もいゝ飯を喰わせてもらひやした。お天道さん、ありがとさん。
 けえりァちょいと脇道ご見学。目のめえの駅までの間にァいまどき余所ぢァ見れねへ出会茶屋。軒並みそろって赤い灯青い灯。やっぱりこゝァ根ぎしの里。江戸の比ならお囲い者の小屋敷が、軒をつらねてゐたンでしょうが、それがいまぢァをとことをんなの忍び部屋の時間貸し。むつみごとやら、鶯の谷渡り。根ぎしの色の灯ァ、いまでも消えちァいやせんゼ。

【附(つけた)り】
[※1]笹乃雪。http://www.sasanoyuki.com/ なお、同店では豆腐にはすべて豆富の字を当てている。
[※2]台下。谷中や入谷などの低地に対して、上野、鴬谷、日暮里などは高台であり、山の手と呼ばれた。現在の区名「台東区」と高台の東の意と思われる。
[※3]一丁。距離、約100mほど。町は一丁四方で区画されることが多かったようである。江戸絵図(地図)では、町を丁の字で表記している例が多い。
[※4]酒ェ食べる。江戸の頃、酒は飲むというよりも食べると表現されることが多かった。

2008年8月10日 (日)

江戸気風勇心太(ゑどがたぎいさみのひとつき)

きのふ8月9日。めくる暦は天保暦。知られたその名は太陰太陽暦。それで見りァとっくに秋ィへえってすでに九日目。文月(七月)九日、真ッ昼間だから上弦の月ァ天にありァしねへが、立秋からかずえて二日目の立派な秋。なのにいつまでつゞくこの暑さ。コウ鳥渡(ちょいと)お天道さまヨ。燃えすぎてるンぢァござんせんかい。暑さにかまけたか、どっかにいゝ神様仏さまができたわけでもねえが、思へばずいぶんとご無沙汰のご無礼。浅草寺と弁天山の、をんな主人にご挨拶。まかり越してみたはいゝが、その蒸すこと尋常ぢァねへ。いつもながらの仲見世の、大賑わいでそよとの風も抜けぬ始末。びっしょり濡れる上布の絣。人込みかきわけきざはしのぼり、ちゃりんと投げるいつもの贋銀、たったのいちめえ。どたまァ下げて願うもいまさらに、ある歳ぢァねへけれど、なんか言わにァあちらさん、お困りなさらふッてェもの。ありがたふさんとつぶやいて、抜ける境内大銀杏。脇からずいと現れし二十ちょいの娘さん、「爺さん、決まっておりやすヨ、なんてお上手言ひやがッて。生きてるうちにご遺影撮らせてちょうだいのおねげえヨ。相手が女子(おなご)トくりァ万障排してきいてやるがをとこのつとめ。杖にすがる姿と腰にさしたる莨入れ。ぱちり\/トおさめて、にっこり笑ってあばよのさいなら。
 弁天山の弁財天。妬きのお強いが噂のこちらさんにァ、来るめえに観音さんに色目使った素振りも見せず、おめえさんたった一人を目指しての参拝と、白々しくも銀(しろがね)まがいの硬貨いちめえ、金(かね)の賽銭箱にカランと落し、やっぱり願いの筋ァねへけれど、天窓(あたま)ァ下げてのご挨拶。流れる汗に音ェ上げて、人込みさけて逃げ込むハ芋やうかん舟和本店[※1]の二階。煎茶呑みたし煎茶なし。品書の隅に隠れし心太(ところてん)。夏の涼味ハこの一品。義山(ぎゃまん)の器を見りァ、うれしいことに心太が並ぶお揃い。ちか比(頃)どこの見世ァ行っても器ン中の心太、かけ蕎麦みてえにばら\/になってるのが当りめえ。ところがそいつァ啌(うそ)出来ヨ。竿物[※2]のように切った寒天を木づくりの筒に入れ、ひと息に突き出して器ン中、細く切った心太にして落とすのが昔からのご定法。この舟和の心太は、揃って器ン中に寝そべってゐるぢァござんせんかい。これがそのあかし。いま突いたばっかしの心太とわかるッてもんサ。突きたてならでは、角がぴッと立ち、その角が口ン中で舌にこゝちよく当たるが爽快。喉越しも突き立てならではのなめらかさ。袋入りで売ってる心太ぢァ逆立ちしても出来ね相談。あのざらついた感じァ突いて時間がたって周りがへたった証拠。突き立ての切れ味、こいつが心太喰ふ醍醐味ヨ。酢加減も醤油の塩梅もシャキとしてゝあっし好み。化け学づくりの妙な味もありやせん。いゝもん口にさせてもらいやしたゼ。こいつァ汗が引くぜエ。

【附(つけた)り】
[※1]舟和本店。http://ryoma.cantown.jp/cgi-bin/WebObjects/Cantown.woa/wa/shop?id=121
[※2]竿物。羊羹などのように長四角につくられた菓子を言う。

【番外】川柳ごっこいたしやせんかい

 暑うごぜえやす。とっくに秋へえってゐるのに、性懲りもなく暑い。でだ、気散じに川柳であすび(遊び)やせんかい。
 取っかゝりァあっしが詠みやしょう。お跡(後)はお読みのお方が、付けておくんなさいナ。場は一応江戸の世界でッてことでいかゞでやしょう。

 でハ、

〈前句〉あついこと哉\/

  暑気払い 炭火おこして どぜう鍋

  屋根船の 障子立てたる 首尾の松

 こんなとこで、お跡をお頼みいたしやしょう。

2008年8月 7日 (木)

大江戸化物先生(わらわせやしよう)

 お江戸ご府内を乾(いぬゐ[※1])にではずれた練馬の在、草よりいで草に沈む月の入る山の端(は)さへなき武蔵野にその名も武蔵大学ありッてわけだ。校門をへえりァ、江戸好ミの大欅並木[※2]。並木ッたってェこゝぢァ蕎麦ァ[※3]やってねへヨ。あの並木ァ赤松だ。なんの咄かわかんねへやつにァわかんねえでいゝンだが、そこのでっけえ教室へのこ\/行ったとおぼしめせ。文月(七月)二日(新暦8月2日)、七ツ時ぶん。秋の二日目と言ったッて残暑ざかり。蝉も鳴き疲れて鳴りィひそめてるッてもんヨ。
  世の中変人が多いッてことハあっしもその口だから先刻ご存じなんだが、こんどばッかしァ並ぢァねへヨ。どんなお人かァとくとご拝見ッて気もあって、暑さものともせずにのしたッてことヨ。外題は、江戸の楽しい妖怪、商品としての妖怪と来ましたヨ。講釈なさるンは、阿溜池蒲ッ戸(あだむ・かばっと[※4])先生。亜米利加生まれの亜米利加人だッて言ふからおもしれえ。あっしァ江戸にのめりこんぢァおりやすが、妖怪化物のたぐいハあまり馴染みがねへンだが、さて、いってえぜんてえどんなお咄になるか、お楽しみ\/で幕が上がりやした。
  お出ましになったのは、歳の比(ころ[※5])なら分別ざかりの中年ざかり。生れは紐育(にゅーよーく)州の1954年。日本におこしになって三十年。本郷赤門大学の大学院で博士課程。いまぢァこの山の端さへなきの教授さま。ご本もたくさんお書きですゼ。「ももんがあ対見越入道-江戸の化物たち[※6]、「江戸滑稽化物尽くし[※7]、「妖怪草紙-くずし字入門[※8]。校注の仕事ぢァ「大江戸化物細見[※9]、「江戸化物草紙[※10]。はるばる異国へ来ての化物三昧。見上げたもんだよ屋根やのなんとかなんて茶化したら、大目玉喰らひそうだゼ。
 でだ、なんのお咄かッてえと、なんだゼ。日本に来るめえは、日本ッて国は侘だの寂だのッて世界だと思ってゐたッて言ふのヨ。最初にデッ喰わしたンが源氏物語だッてェから間違いヨ。そいで日本にァ笑ひはねへト思ひこんぢまったンだから、困ッちまうぢァねへか。浮世床[※11]だの遊子方言(ゆうしほうげん[※12])、はたまた春色梅児譽美(しゅんしょくうめごよみ[※13])辺(へん)からへえりァいゝものを。そうすりァ日本のお江戸にァ笑ひも色もあふれてるッてことがわかったものをサ。もっともそうしたら、化物探しなんかに行かねへで、緋の腰巻[※14]ひもといて色の道へ迷いこんでたかもしれねへナ。人間どこで道が変わるかわからねへ。剣呑\/ト。
 箱根山からこっちッてのハお江戸のことなんだが、そのお江戸にァ化物と野暮はゐねへッてむかしから言ひやすが、蒲ッ戸先生ハそこんとこにずいぶん力ァ入れてご説明サ。このお江戸こそ人間の住む場所で大通(だいつう[※15])の住処だと、江戸の町ッ子ハ考えていたとネ。箱根から向ふ、西ァだめヨってネ。あっちァ江戸ッ子にとっちァこの世ぢァねへようなもんだと思ってゐたンじァねえかと。そんでもって、化物ハあっちにゐるとか野暮ハそっちにゐるとかッて詞になるんだらふッて按配サ。源氏物語の書かれたやふな平安の比ァ物の怪(け)ッて言って目にァミえねへおそろしいもんだが、江戸ッ子たちが考え出した化物ァ目に見えるもので、あっしらが使う釜だの莨盆(たばこぼん)だのが化物になるッてわけヨ。むかしから言ひやしたよネ。物はでえじにしなきァいけねへって。ぞんざいや邪険に扱うッてえと、祟られるのヨ。そうした考え方が、化物を考え出したンぢァねへですかい。化物ッてのハそのまんまの文ン字だもんな。物が化けるサ。
 それにしても江戸の町ッ子たちァ洒落が好きでやしたよねェ。深刻ぶった俳諧ハ野暮、思わずにゃッとさせる川柳の方が巧者。和歌だってそうでやしょう。江戸半ばからうしろァ幅をきかせたンは狂歌だもんナ。上等ぶってたり侘寂だの生きる苦悩なんか詠むやつァ野暮よッてネ。そんな気ッ風が笑える化物生んだンぢァねへかネ。あっしァ蒲ッ戸先生の咄ィ聴いてゝそう合点しやしたゼ。そのてっぺんが豆腐小僧ヨ。こついァ先生が上々大吉つける化物サ。菅笠かぶった小僧が皿の上に豆腐のっけて持ってくるだけなんだ。ご愛嬌に足の指はけもの風に書いてありやすがネ。たゞそれだけのことヨ。なんの悪さするわけでなし。なんの芸があるわけでなし。たゞ豆腐持って立ってる。その豆腐落っことされると泣いちゃったりするンだから、だらしのねえ化物なんだが、そこが味噌だネ。笑いの相手なんだ。言ってみりァ無芸の幇間ミてえなもんで、なんの役にも立たねえのサ。なんとなく座敷にやってきて、困ってそこにゐるだけなんだ。その様が可笑しいッてみんなで笑っちャうッてやつなんだらふナ。
 だがヨ、この豆腐小僧、江戸のお人たちァどっから考え出したンだとあっしが不思議に思ひだしたときに、先生おもむろに机の下から引ッ張りだしたもんがあるのヨ。こいつが、茶運びの機関(からくり)人形サ。見たことありやしょう。たわめた鯨の髭だかゞもどる力で茶托に茶碗をのせてお客ンとこまで運ぶ人形ヨ。それェ見せられてあっしァ、ハヽァんときやしたネ。江戸の洒落好きァ茶碗を運んでくるンはまだ役に立つだけで面白くねへ。こいつに茶碗のかわりに豆腐ゥ運ばせたら、大笑いだろふッてネ。そいぢァ元の茶運びの人形はどっから考えた。そいつァあっしが思ふにァ東北の座敷わらしが元ぢァねえのかね。座敷わらしァなんも悪さァしねへといふ。たゞ現れるだけとネ。そいぢァ無駄だから、そいつにお茶ァ運ばせたらお客ァびっくりするだろふッて寸法でつくったのがあの人形ぢァありやせんかネ。そんな風に一本つながって結句(けっく[※16])、なんの役にも立たねえけど可笑しいッて豆腐小僧が出来上がったンぢァありやんかい、ねェ蒲ッ戸先生。

【附(つけた)り】
[※1]乾(いぬゐ)。西北の方角。
[※2]江戸好ミの大欅並木。総欅造りの家の造作は江戸好みと言われた。家を建てると子孫のために後に欅を植えた。欅は250年ほど生育したものが梁にするには最適で、材にしてからの耐久性も同等の年数もつと言われる。
[※3]並木ッたってェこゝぢァ蕎麦ァ。東京藪蕎麦御三家と呼ばれるその一軒が並木藪。浅草雷門前にあり、その地は江戸当時松並木があり並木丁(町)と呼ばれていた。
[※4]阿溜池蒲ッ戸(あだむ・かばっと)。当て字。ダム=溜池、蒲焼の蒲=カバ。
[※5]比(ころ)。頃、の意。江戸の文献では比の表記多し。
[※6]「ももんがあ対見越入道-江戸の化物たち」講談社
[※7]「江戸滑稽化物尽くし」講談社選書メチエ
[※8]「妖怪草紙-くずし字入門」柏書房
[※9]「大江戸化物細見」小学館
[※10]「江戸化物草紙」小学館
[※11]浮世床。式亭三馬作。成立、文化十一年(1814)か。滑稽本
[※12]遊子方言(ゆうしほうげん)。田舎老人多田爺作。成立、明和七年(1770)以前。洒落本。
[※13]春色梅児譽美(しゅんしょくうめごよみ)。恋川春町作。初編巻之一、天保三年(1832)。人情本。
[※14]緋の腰巻。玄人女が絞めた。素人は白布。腰巻もかつては褌と称された。
[※15]大通(だいつう)。通の頂点に立つ人々。蔵前の札差を主とし、十八大通(十八人の大通人)が名高い。
[※16]結句(けっく)。結局、の意。

2008年8月 5日 (火)

嘉永店新内落語双日(おほしにせしんないとはなしのふたひ)

 江戸四宿(しゝゅく[※1])、中仙道[※2]は板橋を抜けりァやがて赤塚。江戸ン比(頃)お閻魔さまの寺で知られた乗蓮寺。権現さまから十石の朱印地をもらったッてえ格式ある寺。八代将軍吉宗ンときにァ、鷹狩のお休処にご指定された由緒ある寺。いまぢァ東京大仏ッてえ日本で三体目にでっけえ仏がそびえてゐるなんぞ、おめえさん知らねへだろう。あっしも前は知らなかったのヨ。だがよ、飼ってた猫が早死してサ。ねんごろに弔ッてやろうッてわけだ。火葬場が荒川の方にあるッてんで落語の黄金餅ぢァねえが運んで行くときにめえ通って知ってサ。そいで成仏をお願いしたのがご縁ヨ。咄ァ横丁ばいりしちまったが、その赤塚の街道筋に平成のいまも大木の並木が申し訳ていどに残っておりやして、そこに嘉永六年からあきなってるッて呉服商がありやすのサ。屋号は白瀧[※3]。水無月(六月)廿四日(新暦7月26日[土])、新内を聴かせてやろふッてご深切で、七ツ時分に伺ったと思ひねえ。座敷ゑ[※4]へえるとぷんといゝ香りヨ。青畳だぜえ。今日日(けふび)畳のねへ家があるッてご時世に、ありがたえ振舞いヨ。縁側の向ふにァ築山を三重(みえ)に築いた庭の眺め。そいつがまた今出来ぢァねへ。一代二代で仕上がる安普請の庭ぢァねへヨ。聞きァこのお店(たな)ァ嘉永六年の見世開き。指折りかずえりャなんと百四十五年ヨ。よくぞ代々浮気もせずに継いでおいでト天窓(あたま。頭)ァ下がったネ。
 やがて遠くからひっそりとした三味の音。そいつがゆっくり近づいて来る。廊下伝ひに三味線を引きながらゆっくりやって来たのは、けふの演者、柳家小春姐さん。ヨッ、お待ちかねッてネ。絽の黒紋付きに引詰め髪がさっぱりとしていっそ色ッぽいゼ。流しながら弾いて来てくれたのは、ご存じ新内流し。あっしァ思はず目頭熱くなりやしたゼ。喉元に熱いもんが突き上げてね。これヨ、この世界だゼ、あっしが欲しかったのハ。庭を背に小春姐さんの座が決まると、弾き語りで聴かせてくれたンは、これまたご存じ浦里時次郎の明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)[※5]。「きのふの花はけふの夢、いまは我が身につまされて、勤めする身のままならず、添われぬふたりが身の上。下(げ)の巻、雪責め。そっくり締めくゝりまで。「浦里は胸をすえ、死ぬると覚悟きわめし身の上、さァ一緒と、手を取り一足飛び、互いに目を閉じひト思ひ、ひらりと飛ぶかと見し夢は、さめてあとなく明烏、後の噂や残るらん。しんみりしたいゝ時が青畳の座敷に流れておりやしたねェ。あっしァ目ェつぶってたっぷり聴かせてもらいやしたヨ。ところが小春姐さんも大判振る舞い。中入りの跡ァお召し物も新作浴衣にお召し替え。趣向を変えて、端唄都々逸さのさで陽気に盛り上げてくだすった。ありがてえねェ。これでまた明日おいでッてンだ。明日ァ古今亭志ん輔の咄だ。
 よく廿五ンちは、あっしもお召し替え。越後上布の絣に赤紫の絽帯のきのふの形(なり)を、けふハ同じく越後上布の刈安色に替え帯ハ小豆の麻の西陣を〆てのお訪ねサ。お座敷の席も改まっておりやしたヨ。庭を横手に、床の間前にハ六曲一双金屏風。緋毛氈で高座を造り厚座布団。客にァ麻の夏座布団。露払いに前座さんが一話でご機嫌を取り、真打ち志ん輔師は小言幸兵衛[※6]。明るく笑わせてお中入り。一息入れて、白地に青の弁慶格子の手拭を茶に替えてのお出ましヨ。〆は子は鎹(かすがい)[※7]。鳥渡(ちょいと)しんみりさせてのお開き。いゝ双日(ふつか)でやしたねェ。

【附(つけた)り】
[※1]江戸四宿。江戸府外に設けられた街道の第一番目の四つの宿場。東海道は品川。甲州街道は新宿。日光奥州街道は千住。中仙道が板橋。
[※2]中仙道。現在は中山道と表記されている。
[※3]白瀧。http://www.kimono-shirataki.com/main.html
[※4]ゑ。江戸の頃は、目上に対しては「ゑ(江)」を用い、目下には「へ」と使い分けていたと言われる。芸人が色紙に○○さま江と書くのはそれからきた風習と思われる。
[※5]明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)。
[※6]小言幸兵衛。落語の題名。店子に毎朝小言言って歩くのを楽しみにしている大家の落し話。
[※7]子は鎹(かすがい)。酒でしくじった棟梁が、我が子が縁で別れた女房と縒りを戻す人情噺。

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