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2008年6月27日 (金)

緑陰雨情午梅香(あめにけむるひるのかばやき)

 朝ッから雨ヨ。鬱陶しい日がつゞくじァねへかい。こんなときァ心持ちィきっぱり変えるが上策ッてもんだゼ。で傘ァ片手に、上野は広小路。ずらりと並んだ見世の招牌(かんばん)の赤や黄色のばけ\/しい[※1]色合い、駆け抜ける車の騒がしさ。小ぬか雨ン中、爪(つま)掛け足駄で山の道ィたどりァ、それもこれもみんな後においてけ堀[※2]。葉桜の森ァ静かでよござんすねェ。なんだか半年の余めえに暮らしてゐた八つのお山に戻ったやふな心持ちになりやしたヨ。停車場や百貨の大店(おほだな[※3])のつる\/滑る床にァなじまねへ赤樫の歯もお山の道にァしっくりして、かッ\/と心地いゝ音たてゝくれるンで、気分がいゝゼ。足駄ァこうこなくちァいけねへ。
  ほどなく登りァ貸席の韻松亭。いゝ数寄屋造りぢャござんせんかい。木陰にしっとり風情がありやすねェ。思はず足が停まッちまふ。森木立ン中で、こんなしおらしい数寄屋造りの庵で暮らしてえもの。隠居はこうありてへもんだ。足先がふらりとそっちィ向きそうになッちまったが、おッとどっこい、そっちぢャござんせん。けふは景気づけに来たンだゼ。
  も少し登りァやっぱり左手に、こんどは洋館。ちょいとゞでかいのでいけやせんが、これが名高い精養軒。あっしにァお呼びぢァござんせんので、無愛想に通り越し、繁る木立の下を行きァやがて並木の枝に一列の提燈が目印に燈されて、目指す梅川亭[※4]ハこゝヨと告げてゐるッて仕掛けサ。
  池之端の鰻とくりァ伊豆栄が知られてるが、こんな気分の日にァけえって静かなとこで、ひっそりやるのがあっしァ好きだから、わざ\/山ァ登って来たッてわけヨ。
  見世ェへえると正面が畳の部屋。大窓のめえにどっかと腰ィ下ろし、「まず一本、ぬる燗で頼みますよ。肴はうざくにしようかねト誂える。窓の外は不忍池へ向かって下る山。木々が鬱蒼と繁って見晴らしァねへ。それがまた梅雨の気分にァよく合っておりやして、ちょいと湿った心持ちにァ似合いッてもんサ。
  やがて来た徳利は独楽の袴[※5]履いてゐるのがいゝぢァありやせんかい。だが、お相手がぐい呑ッてのは鳥渡(ちょいと)寂しい。薄造りの盃にして欲いが、マない物ねだりでしょうがねえか。いっぺえ呑んで口ィ湿らせ、うざくへ箸を。こゝンちのうざくの蒲焼ァ肉厚だヨ。どうかすッと、余りみてえな痩せッぽちを胡瓜と和えて誤魔化して出すよふな見世が多い中で、気に入ったネ。ゆっくり呑んでくつろいで、さてご本命はと。鰻重とも思ったが、けえり(帰り)に山ァ下るのを思ふと、小屋が重くちャ仕事になんねへ[※6]から、蒲焼を頼む。やがて姐さんが運んできたのは茶箱くれえありそうな白漆の箱ヨ。こいつァなんだネ。下に湯ゥ仕込んでおりやすネ。蒲焼が冷めねへ工夫だ。うれしいねェ。よくあるのは、焼物の皿に盛って出てくるッてやつだが、そいだと皿ァ熱湯であッためてあっても、じきに蒲焼が冷めちまう。湯を張った箱ン中に蒲焼を仕込んでッて咄ァ聞きやしたが、お目にかゝるはお初でござんすヨ。山椒の粉ァぱら\/と振って、箸で切って一口喰ふ。あゝ、いゝ心地だ。息ィ吹き返すゼ。
  ごッそさんト帳場で勘定すまし、おたくの屋号の梅川ッてのは、どういふ謂れなんだいト姐さんに聞くと、平成の元年に元貸席だったのを買い取ったンで、そのまンまの屋号を使ってゐるンでわからないんですッてことだ。なるほどねェ。いまどきこれだけいゝ処ァ手にへえらねえネ。朱漆がぽつ\/と散らしてある座卓も居抜きのもんかねェ。けっこう粋な風情でやしたゼ。数寄屋の座敷の造りもよござんしたし。気分が落ち着きやしたヨ、ありがとさんトのうれん(暖簾)を跡(後)にし、雨中を行く。東照宮の脇ィ通り、少し歩きァ茶屋の新鶯亭。御影石の石畳をたどると、雨に濡れた根締めの龍の鬚の中に小さな白い花。浮かれて一句。
  どくだみの 花ほの白く 忍び路
 上野忍ヶ岡の木立ァずっと雨でやしたが、静かないゝ昼だったねェ。

【附(つけた)り】
[※1]ばけ\/しい。化け化けしい。けばけばしい、の意。江戸の通人の間で倒語が流行、それが定着して現代ではけばけばしいが使われている。
[※2]おいてけ堀。錦糸町にあった堀。夜そこを通ると池の中から「置いてけ、置いてけ」と声がしたと伝えられている。
[※3]百貨の大店。百貨店の意で使った。
[※4]梅川亭。伊豆栄梅川亭。http://r.gnavi.co.jp/g063801/menu5.htm
[※5]徳利は独楽の袴。徳利が冷めないように履かせる木製の袴。轆轤で独楽柄を削り、数色の漆で仕上げてある。
[※6]小屋が重くちャ仕事になんねへ。鳶や大工などは昼に腹一杯食べると午後の仕事に躰を重くなるのを嫌い、このように言った。大食漢は能無しという軽蔑の意も含んでいる言葉。

2008年6月23日 (月)

【番外】徒然草に表裏有

 兼好の名聞きて徒然草を挙げぬ者あらざらむ。是を以て風流を会得したかの如し。余、此処に第一段の初筆を掲げむ。吟味すべし。つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向ひ、心にうつり行好色のよしあしごとを、そこはかとなく書きつくれば、をかしうこそ物ほしけれ。この連なり、兼好にして兼好にあらず。法師の徒然草、鎌倉の御時末に成立せり。されど室町の比省みられること少なし。塵芥の反古紙に身を窶し好事家の書架に眠り、物見えぬ人の襖の下張りと化す。しかるに慶長三年徳川幕府開府に端を発し、何故か時花となりぬ。世の流れいとをかし。模作多く産ずる。されど本歌取り、狂歌、川柳の洒落の筆法たらんとするものにて、賤しき贋作にはあらじ。兼好の徒然草書き出し、僅か好色の一字加えるのみにて咄の本筋を表より裏へ軽々と切り返したる者こそ、江戸新吉原江戸町一丁目結城屋又四郎来示その人なり。稼業くつわ也。外題『吉原徒然草』と号けん。本歌に表されたる二百四十三段全段に合わせ、巧みなる文技にて段ごとの題活かし、軽妙なる運びを用い、北州の機微を明かす。をとこトをんな、よねと客、廓と娑婆、地獄中に極楽有、極楽中に地獄有の様、野暮と通り者、千句の諺顔色失うごとし。深き心にて察し、人の世の如何なるものかを知り得ることたがわず。こゝに熟読すべ書在ることを知らしめ、江戸の色の道の深みを探索す手だてとされんことを願ひ蔵書庫の扉を明けんとす。

【附(つけた)り】くつわ=遊女屋。遊女を客を乗せる馬と見立て、その馬の轡を取って自在に扱うところからそう称するか。となると浅草寺東側を吉原へ向かう道を馬道と称したのは、馬の里へ通う道との意味もありしか。丸に十字を描く紋を轡(くつわ)紋と言ふ。殿の馬の轡を取る家柄の者の紋たるか。北州=新吉原。北国、北里等とも呼ぶ。江戸の北に位置した故。品川は南、深川は辰巳と称した。よね=遊女。

2008年6月19日 (木)

知己来遠遊蕎麦(ともえんぽうよりきたりそばにあそぶ)

 ついこないだ、人のお迎えで上野の停車場ァ行きやしたが、こゝが江戸の昔ァけころ[※1]で知られた山下[※2]たァいまぢァ知る人もありやせんでしょうね。こゝら辺(へん)から上野の広小路[※3]にかけてだそうでやすナ。けころァ仕掛ェ[※4]みてえなもんは着やせん。中にァ前掛姿もゐたッてェ咄だから、みんな太物[※5]ですワ。あんまり目に余るッてんでお奉行所がとッつかめえてみたら、ほとんどが有夫だってンだネ。だから黒ッたって根は白[※6]ヨ。デけえされて(帰されて)、わずかばかりゐた黒は吉原の鉄砲見世[※7]なんぞの局(つぼね)女郎の勤め[※8]に出されたンぢァねへですかネ。公許の吉原以外で色ォ売って警動[※9]にかゝりァそういうことになるのが定でやすからナ。昭和の御代まで二度のお勤めなんて詞ァ冗談半分に堅気の世間でも使っておりやしたが、その元が岡場所で掴まった女が吉原へ放り込まれて三年だったか河岸で働かされるのを勤めッて言ひやして、解き放たれた跡(後)また捕まって戻ってきたのを誰々さんは二度のお勤めだよなんて言ったッてわけサ。もっとも勤めッて詞を女郎勤めを言ふンだそうですからナ。そいで昭和の半ばッ比まであった職業婦人ッ詞はいかんトなって、帳場淑女(OL)と呼名ァ変えやしたが、こいつも可笑しい。淑女てのは公家貴族の北の方さまやお姫さまのことだらふから、働くなンてこたァ元来しねへ。帳尻合いやせんナ。
 江戸を見せてくんなッてのが、このたび地方から来るお人の頼みなんで、そうなりァやっぱり浅草がまとまってゝよろしかろうと浅草寺へお連れし、観音さん弁天さんと浄財を投げて身を清めてもらいやしてから、案内にかゝりやした。なんせ早起きのご仁なので、到着がはえへ。列車ァ遅いのに乗ってもらいやしたが、そいでも喰いもん屋ァまだ明かねへ時刻ヨ。朝の内からァなん\/だが小腹充たしと江戸の土産咄のねた[※10]にト伝法院通りの大沢屋[※11]へ連れて行き、蒟蒻田楽ゥひと串[※12]ずつ喰ふ。おでんの元ァ田楽だと言ひやすが、あっしの当推量(あてずいりょう)で言やァこゝンちの田楽は守貞満稿[※13]なんぞに書かれてる江戸の田楽そっくりヨ。こいつがそいつだと思ひやすヨ。そこんとこ汲んでもらおうッてんで、案内したッてわけサ。
  でだ、田楽の串ィあっしァ歯ァいけねへンで横ぐわえにして引き抜けねへ。みっともねへが楊枝ィ二本もらって箸みてえにつかい、蒟蒻を引き抜いちァ鯔背(いなせ[※14])泣かせの喰い方ァしておりやしたら、「そうやるもんなんですねェなんて感に入った風に言われちまッたゼ。勘ちげえなのか、からかわれたのか、そこんとこァわかんねへ。なんせ洒落と皮肉のあわいがとぼけたお人なんでネ。はははッてやつヨ。
 朝がたっぷりな代りにけえり(帰り)ァ九ツ時分の列車ッて忙しさだから、午(ひる)ゥ済ましたらこんだァうか\/してらんねェ。日曜の浅草ッてのは始末がわりい。人だらけヨ。世の半端もんのあっしァ世間さまがお休みでお楽しみのときァお邪魔しねへよふに九尺二間[※15]に息ィ殺してゐるンだが、きふはどうにもならねえ。なんせお出での客人は堅気のお方だからネ。堅気ッたって髭ェ生やしてゝ通る稼業なんだから、真ッさらの堅気ぢァねへンだが、そいでも日曜しか休みの取れぬ躰のお人ヨ。
 江戸らしいッてあっしが浅草で胸ェ張れるのは蕎麦なら並木藪[※16]、鮨なら弁天山美家古ッ[※17]てとこになりやしょう。だがけつ(尻)の時刻ゥ思やァ手のかゝる鮨ァ剣呑ヨ。デ勢い並木になりやさァ。並木ならのうれん(暖簾[※18])くゞるめえに眺める見世の佇まいから「ありがたふございますゥッて那智黒[※19]踏んで送り出されるまでの何もかも、目せえしっかりしてりァ感じとるこたァ山ほどありやすから、しっかと江戸を見たことになりやしょう。
 見世に着いたのは、いまの時計で十一時半をちょい回った比(頃)。開け放しの戸口ィへえるともう席ァいっぺえヨ。そいでも運がいゝネ。小上がりの縁に邪魔させてもらってたら、待つ間もなくいっとう奥の二人席が空いて、壁ェ背負って胡座ァかゝせてもらいやしたゼ。「お酒一本、ぬる燗で。焼海苔も一皿ト誂え出して、連れのお方ァ酒ァ純米酒しかお食べぢァねえんで[※20]、「こゝンちの酒ァ、ホレあの樽酒でト見世の隅にでんと鎮座ましましておいでの菰樽を指し示し、ありァ本醸造でやすがネと念を入れておきやした。マ一献と酌み交わし、例の蕎麦の実入りの焼味噌と焼海苔を肴にいたしやした。相変わらずこゝの山葵ァ香りがいゝ。そいつゥ海苔で鳥渡(ちょいと)包み、端ッこに下地ィ[※21]鳥渡つけて口に運びャ芳ばしい香りが鼻ァ抜けるゼ。客は「午酒は初めてだが、滲みますねえト悪いことォ覚えさせちまったかもしれねへ。マいゝか。そちらさんもとうに白髪のお人。分別ァありやしょう。いまさら生き方間違えてもあっしのせいぢァねへ。
 蕎麦は、あっしァいつも一人で世間の邪魔になる時分時(じぶんどき[※22])さけて八ツ時分[※23]に来るもんだから、いッつもざる一本槍ヨ。でもけふは客人だし、比は時分時。初めて天ざるを奢りやしたヨ。なんだネ、ここンちの海老天[※24]は小海老だよ。才巻[※25]かね。味のいゝのは小振りの海老だからネ。でっけえのは脅しァきくが、味ァ腑抜けが多い。江戸ぢァ昔から芝海老ッて言ひやしたネ。芝の海で採れたからだろうが、いまァどうなッちまったかネ。その小振りのォまとめずに一匹ずつ揚げてある。腹のとこに衣を抱かせるよふにつけてある。そこがまたカリ\/ッとしてうめえ。つゆァあッためてくれてゐるンだが、そこに鳥渡つけて喰ふ。つい\/海老天がうめえンで、蕎麦とつゆとの絡みの影が薄くなっちまって、喰い終わって思ひけえしてみると、蕎麦ァどこにいッちまったかッてくれかヨ。哀れだねェ。立役[※26]のはずの蕎麦ァすっかり脇ヨ。まるで黒子[※27]みてえにあってもゐねえが如くサ。やっぱり蕎麦ァざるだけで喰わにァ啌だネ。
  ごッつゥそさんト大川渡りの風にそよぐ暖簾跡にして、浅草の停車場までお見送り。跡は一人でゞえじょうぶッてんでそんぢァあばよッてなったんだが、さてお客人、しっかとお江戸を見届けておくなすったかねえ。あっしァそいつがしんぺえヨ。なんだいあんな古めかしくてちっせえ蕎麦屋で誤魔化しやがってト腹ァお立てぢァござんせんでやしょうネェ。

【附(つけた)り】
[※1]けころ。最下層の売女で半素人。花代(つとめだい)二百文。明和の頃からこの名で呼ばれる売色の家が、上野山下付近の仏店(ほとけだな)、提燈店(共に下谷二丁目)、上野町、下谷広小路へかけて沢山できた。
[※2]山下。現在の上野駅辺り。上野の山(現上野公園)の東叡山寛永寺の崖下であったため、山下と呼ばれた。徳川時代後期に繁栄した盛場。。山下は二つあった。一ヶ所は現上野駅正面広場付近にあった火除明地。十年期限で葦簾張りの店がつくられ興業地となった。もう一ヶ所は庇床請負場所で、現上野駅南口一帯でこちらは商業地であった。
[※3]上野の広小路。元は寛永寺への将軍の御成街道。明暦三年(1657)の大火後、火除けのために拡幅され広小路となる。
[※4]仕掛。吉原語。花魁の着る裲襠(うちかけ・かいどり)の衣装をこう呼んだ。
[※5]太物。木綿の反物の呼称。絹物に比べ巻が太いため。
[※6]黒ッたって根は白。黒は玄人、白は素人、白人(はくじん)とも呼んだ。根は、元々はの意。
[※7]鉄砲見世。吉原で最下層の妓女を置いた見世の一つ。西河岸や羅生門(らじょうもん)河岸などには局見世、切見世、鉄砲見世などと呼ばれる小間の見世が並んでいた。
[※8]局女郎の勤め。上の鉄砲見世などで働かされることを言う。勤めとは女郎稼業を表す言葉。
[※9]警動。町奉行所が岡場所(私娼窟)の手入れをすること。臨検。表記は他に、驚動、傾動、怪動、刑道などあり。正字未詳。
[※10]ねた。種の転語。通人言葉。
[※11]大沢屋。甘納豆屋だが、蒟蒻田楽も商う。http://asakusaoosawaya.joymo.jp/m_00.php
[※12]蒟蒻田楽ひと串。串に刺したこんにゃくを茹で甘辛の練味噌を塗ってある。一串100円。
[※13]守貞満稿。喜田川守貞著「近世風俗志(守貞満稿)」宇佐美英機校訂・岩波文庫
[※14]鯔背。勢いがよく意気な男。髷の刷毛先を鯔の背のように三角に細く立てたからとも言われる。
[※15]九尺二間。一般的な長屋の一部屋の寸法。間口九尺(一間半)奥行き二間で合計六畳の広さだが、入口の土間もそれに含まれため、実質は四畳半の板間。畳、入口の障子は入居者の自前。筵(むしろ)で暮らす者も多くいた。
[※16]並木藪。東京の藪蕎麦を代表する御三家の一つ。http://donraku.moo.jp/wa/yabusoba.html
[※17]弁天山美家古。江戸前握りを堅持している鮨店。http://www.mmjp.or.jp/OTARU/insyoku/jsu-miya.html
[※18]のうれん(暖簾)。江戸の頃はこのように発音されていた。(守貞満稿参照)
[※19]那智黒。那智黒石の略。碁石にも用いられる。混じり気のない漆黒の小石で表面に滑らかな艶がある。古くから珍重された石。並木藪蕎麦の店内の床にはこれが撒き埋め込まれ、研ぎ出しされている。
[※20]純米酒しかお食べぢァねえんで。江戸の頃、酒は飲むと言わず食べると言うことがままあった。
[※21]下地。醤油のとこ。江戸ではこの呼称がよく使われた。
[※22]時分時(じぶんどき)。食事時のこと。ここでは昼食時として使用。
[※23]八ツ時分。いわゆるお八つと呼ばれる時刻。明治以前は不定時法なので四季により時刻は異なるが概ね現在の2時から3時頃。
[※24]海老天。天麩羅とは魚介類に衣をつけて揚げたもの。野菜の場合は精進揚げと呼び区別する。
[※25]才巻。全長12、3センチの小振りな段階の車海老。味、食感ともにもっとも佳い。鮨屋、天麩羅屋、料理屋などで用いる。
[※26]立役。歌舞伎の主役のこと。立役者などとも。
[※27]黒子。くろこ。歌舞伎の舞台上で役者の補助をする全身黒づくめの者。観客からは見えない存在とするのが約束事。

2008年6月17日 (火)

【番外】ひとりね

 世に徒然草、方丈記は在るはもとより知る処なり。わけても方丈記、心深く惹きつける書なり。京日野山に住える鴨長明の如く余も山隠の日々を送らむとし、八つの山中に柴の庵を結び二十年の星霜を送る。先年思ふ処有。名残の齢を古里にて過ごさむと江戸に戻り、市隠となりて江戸ッ子の修業に日々を費やす。
 この度、ひとりねの在るを知る。柳沢淇園の書なり。本書、学舎では教えぬ書なり。徒然草を読み方丈記を繙きても未だ人生の奥義に達するとは言ひ難し。いわんや本書を読まずしてなお。
 淇園、元は曾禰氏なり。柳沢吉保の息吉里に仕え、父代に柳沢姓を許さる。淇園は号なり。坊間、柳里恭にて知らるゝ。
 宝永元年生を受くる。八九歳にて花鳥図を描き、十歳にして永慶寺の十五祖師図を画くと伝えられ、十五歳にて甲斐恵林寺羅漢図の求めに応ずる。禅学は十代にして修め、十三歳より唐音を学ぶ。十一歳にて観世新九郎に師事、鼓を学ぶ。十九歳比には篆刻に才を発揮する。
 ひとたび関心を抱けば、その求め浅からぬものがあり、すべからく徹底し耽溺し探求す。雅から俗へ、机論から行動へ。至らぬ処なく、精神の放蕩から行いの放蕩に達し、折花攀柳の巷に到り、とりわけ吉原には通暁せり。本書ひとりね、淇園二十一歳の著述なり。墨跡を辿るとき、記されし洞察若輩の残せりものと誰が思ふや。儒学、漢詩文、唐音、仏学、書、画、篆刻、鼓、三味線、河東節、色道、俳諧、香道、武芸諸技。二十前にしてすでに人の師たるに足れる芸十六に及ぶと近世畸人伝に見ゆる。恐るべき才人なり。
 余、淇園の三に倍する歳月を浪費し、足下影跡に及ばず。やんぬるかな。遅ればせながら学ばむとして夕べに紙魚を追い朝に墨滴を辿る。嗚呼歳月人を待たず。光陰矢の如し。星霜流星の如し。残夢消え逝くのみ。

2008年6月 7日 (土)

煎酒玉子掛御飯(いりざけたまごかけごはん)

 鶏卵(たまご)はあっしの餓鬼時分でも高直(こうじき[※1])なもので、一ツ売りしておりやしたナ。風邪でもひかねへと喰わしてもらへねえ代もんでしてネ。買いに行くッてえと、売や(屋)ぢァ明かりに透かして中身ィたしかめてから、渡してくれたもんヨ。とんどり(雄鶏)がかゝッてるッてことでやしてネ。いまみてえに中抜けが当りめえぢァなかッたてえことですワ。昔並に一個売りの玉子の売やをこないだ遠歩きしたときに目ッけて買ッてけえったと思ひねえ。そのめえにァ銀座ァ金春通の三河や[※2]で煎酒を手に入れておりやして、青柳や帆立の貝柱の刺身ィ食べるのにも下地[※3]の代りに使っておりやしたのヨ。そいで、三河やさんの言ふにァダ。煎酒の玉子かけご飯がおすすめだッてのサ。それも鳥渡(ちょいと)やりよふにひと工夫がありやして、そいつがなんとも旨そうでねネ。役者が揃ったンで、なんとしてもこいつをものにしてえト今夕企(たくら)んだッてことヨ。
 まず、飯ィ炊きやしょう。それが炊きあがッちまってからぢァ跡(後)の祭ヨ。段取りァおさ\/怠りなくサ。玉子を解いでおくのヨ。もち[※4]煎酒も揃えておくわなァ。そいでご飯が炊きあがったら、蒸らさねへ。こゝが肝心だヨ。熱々の湯気ェ立ってンのをすぐさま茶碗によそう。間髪を入れずに解いた玉子ォかけて、箸で混ぜる。するッてえと、炊きたての熱さで玉子がすぐさま半熟になる。そこに煎酒ェかけてまた和える。そいつゥ素早く喰ふのヨ。その旨えこと\/。玉子の鬱陶しい匂いが煎酒の薫りで消され、黄身の佳い香りだけが立ってくるッて寸法サ。黄身の甘さと煎酒の甘さがない交ぜになって、こいつァどうもたまらねえ。なんとかの深情けだゼ。
  煎酒ッてやつァ江戸で下地が行き渡るめえに使われていたんだそうだネ。江戸の比(頃)の造り方ァ酒に下地、酢、かつぶし[※5]、焼塩を合わせて煮詰めたッて言ふ。三河やのもんハ酒に花鰹と梅干し入れて煮詰めて造るッて咄だ。使ってみるト塩気は薄いネ。並の醤油の三分の一だってえから、躰にァいゝゼ。そいで旨いンだから、止められねえヨ。

  三か月やつゐいり酒によひの程  俳諧・毛吹草(一)

【附(つけた)り】
[※1]高直(こうじき)。高値のこと。江戸語。
[※2]三河や。銀座三河屋。http://www.ginza-mikawaya.jp/items/traditional/01.html
[※3]下地。醤油のこと。吸物を作る下地の意。江戸語では下地と称することが多かった。浮世風呂(文化九年)三上「醤油(したじ)のお雑煮」。志ん生も落語の中でこの語を使っていた。
[※4]もち。もちろんの後略語。
[※5]かつぶし。鰹節の略。江戸語。もとより削り節を指す。柳多留(明和八年)六「玄関番かつぶし箱をあてがはれ」

2008年6月 1日 (日)

【番外】お天気腰痛

 こゝンとこ何ヶ月もみし\/痛くてしょうがなく、この四五ンちなぞは腰から背中まで湿布のべた貼りでなんとかしのいでいた腰の痛みが、きのふの晩ヨ。ふと気づいたら消えてるぢァねへかい。あっしァピンときたネ。空の野郎、晴れやがったなねッてネ。こゝンとこの湿った陽気のせいヨ。まるでこれぢァ神経痛か疝気だゼ。そいつが、啌(うそ)のやふに消えちまってンのサ。しめた、あしたァ晴だッてネ。
 そいでけふは昼に蕎麦手繰りにわざ\/半里もあるとこの見世ァえらんでせっせと早足で行ってきやしたのサ。往ッて返って一里ヨ。あっしにしちァえれえネ。褒めてつかわすッてもんサ。
 けえって来てからがまた大仕事ヨ。箪笥を隣部屋へ移し替えして、着物をぜんぶ季節に合わせて入れ換えてすっかり片づけちまったのサ。だから見ねえナ。そんなことするから、予報ぢァあすの夜からまた雨だとヨ。馴染みの腰の痛みがすぐにお戻りになるッて寸法サ。世の中甘くァねへゼ。

 喜ンの字 

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