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2008年5月31日 (土)

町気質見透格子(まちッこかたぎみとほしがうし)

 ついこないだの卯月(四月)廿三ンちヨ。西洋暦で言やァ5月の27日サ。ようやっと丸太ごうし[※1]へ足ィ伸ばせる間ができやしたッてわけサ。例によって観音さまと弁天さまにけふもありがたふごぜえやすトどたま(ド頭)ァ下げ、ちょいの間ァときィ(時刻)はえへンで、お八つ代りに喜田川の守貞旦那が満稿[※2]に書いておいでの江戸の比(頃)のおでんッてえもんを喰って下地を作っておかふと算段したのヨ。なんせ丸太ァ東京の香り浅草の味ッて招牌(かんばん)挙げておりやすもんネ。てッてえことは江戸ッてことぢァねへわけなんだが、なんせあっしァ江戸探しの旅ィしておりやすもんでネ。東京の根ッこァ江戸から生えておりやしょうッてわけだからネ。そいで、おでんの元ハ江戸でどんなだったかを知りてえッてことサ。
 曰く、こう書いておいでヨ。「上燗(じょうかん)おでん 燗酒と蒟蒻(こんにゃく)の田楽(でんがく)を売る。江戸は芋の田楽も売るなり。けだしこの賈(喜三二注、あきない)、大いに異なるの扮なし。故に略して図せず。トね。守貞の旦那ァかなり画達者だったらしく、いろんな物売りの格好や屋台なんぞを絵に残しておいでだが、この田楽だきァはしょッちまったのが今となりァ泪ヨ。でも、おでんとは蒟蒻と芋の田楽だったッてえこたァ分からァ。田楽と言やァ普通は豆腐だ。串に刺した豆腐を焼いて甘味噌なんぞを塗って喰わせるもんだ。となりァまず、串に刺してある。次に味噌ォ塗るッてことだ。だが、いまァおでんッて言やァ串に刺してねへ。味噌を塗らねへ。せいぜい練辛子ィつけるくれへヨ。思ひ返してみりァあっしのわけえ時分までのおでんッていやァ、祭や縁日の屋台なんかぢァ串に刺してあるのが通り相場だったンだが、いまァ見やせんねえ。見世で出すおでんで串ィ刺してあるのは、こないだ電子絵箱[※3]で駿州の真ッ黒汁のおでんが案内されたが、そんとき確か串に刺してあったやふな気ィいたしやすがこいつァうろ覚え。間違ってたら勘弁してくんねへ。
 デさて、その蒟蒻串刺し甘味噌塗りの田楽喰いに、伝法院通[※4]ィ寄りやしたのサ。観音通[※5]から馬道[※6]へ曲がるとすぐの取ッ付きみてえなとこにその見世ェありやす。甘納豆やさんかネ。こゝンちのは工夫があって余所にァねへ旨さだゼ。いっちの人気は空豆の黄粉まぶし。黒砂糖で煮てあるンだがひつこくねへ。屋号は大沢屋[※7]。何が好きッて戸なんかみんな外してあって、客に全部開けッぴろげてあるとこヨ。見世ァこふぢャなきャいけねへ。昔ァ戸なんか立てなかったゼ。今でも新仲[※8]の七色唐辛子のやげん堀[※9]や漬けもんの河村屋[※10]なんかそれがいゝねェ。そいで、この大沢屋に蒟蒻の田楽があるのヨ。一本おくんなッて別嬪の姐さんに一声かけて中(ちゅう)の贋銀いちめえ[※11]ぽんッと置き、ひと串もらって見世ッつぁき(先)の床几で風に吹かれて食らうッて寸法ヨ。四角く切った熱々の蒟蒻が三切れ、それにどろりと黒い練味噌が甘ッ辛くてうめえのサ。ちょいと小腹ァ抑えにァ丁度いゝあんべえの量さネ。
 そうこうしてゐるうちに時刻もよし。風も心地よさをましてきて夕になりにけりで、鼻唄まじりに馬道行きァ気分はとっくに吉原通いぢァねへ、おでん気分サ。二天門を左に見てちょい先にのうれん(暖簾)はためくハ杉の丸太格子。ごめんよト引き格子を開けりァぷんとおでんの匂い。見世ン中の人影ァ親爺ひとり。あっしが皮切りの一番客。名誉なことサ。さてどこに席ィ占めるかトちょいと迷うネ、こうしたときァ。跡(後)のお客の邪魔ァしちァなんねへからナ。「どこでもいゝよ、みんな仕事終わって来ンのは六時半ッ比(頃)からだト親爺。見世ェ開けてすぐへえったあっしァ面目ねへ。なんてッたって時刻だけぢァなく、着流しの姿格好からしてあすび(遊び)人だかンね。
「ぬる燗で一本つけてくんな。親爺さんとこぢァ一本は一合かい。「一合ッたって一合はねへ。面倒だからうちゞァ一本ッて言ってンだ。こいつァ悪かったナ。呑屋や料理屋の商売屋で一合と言ったら、七勺だの八勺を一合ッて言ふのが昔ッからの通り相場。そのつもりで聞いたンだが、こっちの詞ァ足りなかった。うちの徳利は二合ですよッて商売ッ気の強いおでん屋についこないだ行ったばかしだったンで、それがこっちの腹にあったのがいけなかったネ。さておでんト「玉子、でえこ(大根)、厚揚げト言ったとこで、すかさず一本取られた。「その注文する人ァ十キロも二十キロも田舎の人さトね。「厚揚げッてのは東京にァねへのヨ。そりァ関西のもんだ、東京ぢァおでんにァ入れねへ。だからうちゞァがんもどきだットね。続けて親爺ァ「東京ぢァ生揚げッて言ふンだよ。うん、思ひ出した。おふくろだの婆さんの比ァそう呼んでたなァ。「呼んでたぢァねへサ、今も昔も生揚げサ。東京ぢァ薄いのなんて言ふ、お客さん。「あぶらげだろふ。「そうだ。関西ぢァ薄上げッてんだ、だから厚揚げサ。うちゞァ焼豆腐入れてンだ。勉強になるねェ。元禄過ぎてやっと上方の風下から抜けたと思ったのに、ごいッしん(維新)からこっち江戸はまた下に置かれちまッて詞まで変えられちまったッてわけだ。咄ァ変わるがこゝンちのでえこハ味が滲みてゝ旨かったゼ。それに辛子が按配よく溶いてあって、器の内ッかわがきれいで気持よかったねェ。焼豆腐にがんもだのばい貝だの何品(なんぴん)か喰い、最後にモいっぺんでえこ誂へておかずにし、茶飯で〆てごッそゥさんト暖簾を押してゞたとこに待ってましたと乗合[※12]がお出迎え。こいつァ渡りに舟の好都合。ハイさいならとご帰還いたしやした。

【附(つけた)り】
[※1]丸太ごうし。大正15年以来おでん一筋。http://asakusa-ryoin.jp/marutagoushi/
[※2]満稿。(満、正しくは言べん)。近世風俗志(守貞満稿)喜田川守貞著・宇佐美英機校訂(岩波文庫)
[※3]電子絵箱。テレビを洒落て言った。
[※4]伝法院通。馬道から仲見世を突っ切り伝法院へ抜ける小道。近年、両側の商店が通りに面した表を江戸風の外装に統一した。
[※5]観音通。仲見世の左側を平行して走る通り。浅草寺境内辰巳角の弁天山へ通じる。途中で伝法院通りを突っ切る。
[※6]馬道。浅草吾妻橋東詰から三ノ輪方向へ北上する大通り。江戸から昭和まで吉原通いで名高い通り。かつて浅草寺に厩舎があったところからこの通り名がついたとの説がある。
[※7]大沢屋。http://asakusaoosawaya.joymo.jp/m_00.php
[※8]新仲見世通りの後略。仲見世通りと交差し、東西に走る商店街。アーケードに覆われている。
[※9]やげん堀。七味屋。383年前に両国の薬研堀で売り出された七味唐辛子は、江戸を代表する名物。http://www.asakusa-umai.ne.jp/umai/yagenbori.html
[※10]河村屋。江戸・文化文政期0創業の漬け物屋。http://www.kawamuraya.co.jp/
[※11]中の贋銀いちめえ。百円硬貨を洒落て言った。
[※12]乗合。乗合バスの後略。

2008年5月28日 (水)

【番外】ぎっくり喜ンの字

 今月の晦(つごもり)、江戸漫遊連の江戸茶話会 「あっぱれ、お江戸の食い倒れ」をに聞きに行くのォ楽しみにしておりやしたンでやすが、鳥渡(ちょいと)した油断で、右足をくじいちまったのヨ。ドジだねェ。てめえでもやンなるゼ。腰のいてえ(痛い)のハもう久しいことなんだが、そいつに足の甲の痛みのおまけがつきやがった。馴染みの病院へ行くのに、日射が熱いからッてンで素足に下駄ァ突っかけていったんだが、病院のちょいめえで足首ねじッちまってナ。湿布してもらってたんで大丈夫ッて思って、いざけえる(帰る)べえトとベッドから降りたら、足の甲が痛くて西洋草履(スリッパ)が履けねえ。下駄で行ったもんでよろけて挫いたンだが、その下駄が幸いヨ。靴ぢァ甲が当たって痛くて歩けねへ。幸い下駄なんでいてえとこに鼻緒があたらねえようにしてなんとかけえって来ることができやした。どこでなにが起きるか、ほんに分からねへネ。用心、用心。

2008年5月25日 (日)

一寸間席廻正蔵(ちよんのまよせまわしのしやうぞう)

 お江戸へ舞い戻っての冬に、ばったり出会ったお店勤め[※1]ン比(頃)のお方と今度は示し合わせてお会いいたしやした。この方とハ妙に縁が深くって、八つのお山に行ってたときィたま\/お江戸に用があって上ッて来て山手線に乗ろうとしたら、駅の階段でばったりヨ。そんなこんながあるもんで、きのふちゃんと水茶屋でお会いしたッてわけサ。あちらさんハあっしより半周りがとこ年かさ。めえにァ癌で腎臓一ヶ取ったとは聞いておりしたが、前立腺も癌になってそいつも取ったぜト元気な笑顔。冬に出喰わしたときもけふも額にァびっしょりの汗。カロリー減らしにけふも練馬から水茶屋のぶくろ(池袋)まで歩いて来たンだト腰の万歩計。畏れ入谷だゼ。糖尿予備軍だけど、麦酒ァがば\/呑んでるッて大笑いして見せてくれやしたが、あぶねえ奥の細道へゝえっておいでヨ。半刻の余も四方山咄、さてお帰りも歩きですかいト訊きァイヤ電車サッてンで、そんぢァあっしァ鳥渡(ちょいと)西口へト右と左のお別れ[※2]し、ぶら\/行く先ァ演芸場[※3]。今の時刻の三時ッ比。もぎりの姐さんに半券渡したら、なんとかさんがお休みですッて言ったが、こちとらお生憎で聞こえねへ。ざまあみやがれ。あゝそうかいッて鷹揚に頷き、扉そっと開けてもぐり込みァ林家たけ平の真ッ最中。終わってひょいと気がつきァもぎりの姐さん番組刷った引札[※4]もお忘れヨ。もらってひッけえし、お次は柳家喜多八。いつもの伝でだるそうなやる気のなさが売りで始まって、咄ァ鰻の幇間サ。こいつァ志ん生で何べんとなく聞いたが、喜多八のは別の笑いを上手くつくりァがる。志ん生ンとはこゝが違うなッてちら\/天窓(あたま。頭)ァかすめるがそんなこたァお構いなしの可笑しさヨ。ちゃんとこの人ならぢァの咄になってゐるッて寸法サ。仲入りの跡(後)は禽太夫。この芸人さんも柳家サ。そン次が、正蔵ッて引札にァ書いてあるンだが、そいつが休みッてことだったのエ。やろう、廻しィ取りやがったナ。あっしァこのめえ(前)の鈴本で三遍目、馴染みなんだゼ。ちょいと顔出して「主さんちょいと待ってゝおくなまし、うるさいの片づけて来るからネ、寝ちァやだよッくれへ言って行きァいゝものを面のツの字も出さねへ。愛想がねへゼ。代わりのご機嫌取りの新造[※5]は振新ならぬ番新辺り、白酒ヨ。はくしゅッて呼んでくれト自分で名乗っておりやしたが、誰も拍手しやがらねへ。洒落が洒落にならなかったゼ。しろざけなら,あっしァいゝのォ知ってるヨ。博多の練酒[※6]。江戸の比の造り方でこせえた白酒ヨ。こいつァ絶品ですゼ。大きめの盃になみ\/注いでネ、ゆる\/と干す。呑みたくなっちまったぢァねへか、エヽどうしてくれる、白酒ッてネ。咄ァ短命ッてェ題かね、振るいつきたくなるふやな別嬪さんとこに聟が来ちァ次々に早死する咄サ。江戸語で、別嬪を命取りッて言ひやしたもんネ。面食いハ用心しなッて。お跡ァ太神楽はまだお若い柳貴家小雪姐さん。上手いもんだねェ。どんだけ修業すると毬も傘もあんな自由自在に操れるのかねェ。トリは柳家はん治の妾馬。相変わらずの八五郎の莫迦丸出しの咄だが、お鶴の方さまに出世した妹に語りかける辺りァちょいとしんみりさせやしたヨ。よござんしたゼ。
 一刻ほどの寄席の一寸間(ちょんのま)あすび(遊び)。へばりもん(者)のあっしにァこのくれへが丁度いゝとこさネ。撥ね出しの太鼓で外ィ出りァ雨ヨ。この席ィ来るとよく雨になりやがる。この寄席ァ雨席ぢァねへのかい。サテ晩飯はどこでト。雨ぢァ面倒なんで家の駅めえの建もんのくせに屋台を名乗る居酒屋でおでんでぺえいち(一杯)。いつもの伝でぬる燗一本ッて誂たら、ハイよッて出てきたのがなんとビードロ[※7]の筒茶碗[※8]ヨ。こんなもんで酒ェ呑めるなんて、江戸の十八大通[※9]だってなかったンぢァねへかい。罰ィ当りそふなありがた山ヨ。それにしてもあっしァ徳利に薄造りの盃でなめるやふにやりてえ口。ぐい呑みさえ遠慮してへとこなんだが、そいつとッ越していっぺんでビードロ酒になッちまった。コップで呑むなァ初めてサ。江戸の昔なら、一合枡の角から呑むッてやつだネ。よっぽとその方が風情がありやすネ。おでんはまァだったが、そいつがネ。マしゃあねへか。

【附(つけた)り】
[※1]お店勤め。おたなづとめ。会社員を洒落て言った。
[※2]右と左のお別れ。都々逸「可哀相だよズボンのおなら 右と左に鳴き別れ」
[※3]演芸場。池袋演芸場。http://www.ike-en.com
[※4]引札。現代のビラを江戸時代は引札と称した。寄席の番組表を引札と洒落た。
[※5]新造・振新・番新。花魁の付いて名代などを勤める。振袖新造の略。振新とも。年かさになると番頭新造になる。末は花魁。
[※6]練酒。練絹の滑らかさの白酒。http://www.ginza-mikawaya.jp/items/liquor/03.html
[※7]ビードロ。硝子、のこと。切子はギヤマン。
[※8]筒茶碗。真冬の茶席で用いる直径が狭く底が深い抹茶茶碗。ここではコップを洒落れた。
[※9]十八大通。安永・天明期の通人。自ら大通を任じ、銀烟管に黒小袖姿で吉原に遊んだ十八人。蔵前の札差大口屋暁雨・大口屋平兵衛・大口屋八兵衛(金翠)・大口屋平十郎(有遊)、材木屋大和屋太郎次(文魚)、干鰯屋村田屋帆船(春海)、吉原の楼主大黒屋秀民・扇屋墨河・大上総屋一麿、文士二代森羅亭万象・田螺金魚など。仏教の十八羅漢か水滸伝の武芸十八般に因んだものと言われる。

2008年5月20日 (火)

三社祭池之端黒門亭(うわうさわうほっつきあるき)

 けふ十四日(天保暦四月[西洋暦5月18日])のお目当ては神輿に文左サ。だがほんに芯から疲れたゼ。まず行きがよくなかった。乗合で赤ン坊抱いたわけえ(若い)母親に席ィ譲ったら、そのまんま終点まで立ちンぼヨ。腰痛持ちの杖突きがいゝかっこ(格好)するもんぢァねへネ。そいつが跡々(後々)祟ッちまってサ。そンひ(日)ァ三社祭の仕舞日。観音さまへの義理ィあるから神輿の一つも拝みに行かなきャてんで繰り出したンだが、乗合は手前の浅六[※1]でおしめえサ。そっから歩いて浅草寺。賽銭投げて手ェ合わせ、本堂の上から見下ろしたら丁度いゝあんべえ(按配) に仲見世を何基もの神輿が練って来るところヨ。こいつァありがたえ。上から拝ませてもらっておいて、急いで弁天山へお参り。こゝもそゝくさと済まさせてもらいやした。あっしァ盛り場ァ好きだが、人込みハ勘弁の口サ。で、昼は池之端で藪へと逃げやした。広小路から小路ィへえると(入ると)、蓮玉庵[※2]。オウ天保の比(頃)ッから羽振りィきたせたこの見世もあったネッてんでのうれん(暖簾)をくゞる。こゝでゞッくわしたンが小海老と玉葱のかき揚げ。これをもりで誂える。こいつがけふの大当りヨ。銀座木村屋の餡ぱんちいとばかし大きくしたようなかき揚げ、小鉢に入れて持ってきて「こゝに汁(つゆ)かけてお食べくださいッてわけだ。ぷんと胡麻油のいゝ香りサ。車海老の天麩羅と違ってかき揚げァ食いちぎンなくていゝのがうれしいネ。つけ汁ン中でかき揚げ崩しながら食べ、そこに蕎麦を鳥渡(ちょいと)浸けてズズッとすゝる。もりも丸い蒸籠の上にぱらぱらヨ。山に盛ってあるトうんざりいたやすもんネ。あっしにァこの控え目が丁度いゝ。軽く腹ァつくって、これでお代は野口先生ひとッ方。価もありがた山でござんすゼ。
 腹ァできたが、文左ハまだはえへ(早い)。木戸が開くのは八ツッ過ぎ比。時ィつぶしにぶら\/歩き。それにしても、この小路ァきたねへ。幕末にァけころ[※3]で知られた処(とこ)、いまでもその名残か暮六ツともなりァぎゅう(伎夫[※4])が袖引く場だから、ゆんべのらんちき騒ぎの跡、塵紙紙屑点々ッてお粗末サ。薬の守田宝丹[※5]めえ通って、帯紐の道明[※6]、その先にお目当てだった上野の藪[※7]。所在はねへし、腰はいてえ(痛い)しッてんで、下町風俗資料館へでも行って、長屋でくつろぐかト思案して不忍通り。右へ曲がりァ櫛で名高い十三やァ[※8]けふは生憎の休みだが伊豆栄[※9]で蒲焼のタレの香りたゞ聞きし、通り渡って不忍池。こゝにァ江戸の昔ァ池から流れだす忍川。三枚橋が並んで架かっておりやしたそうだが、いまァ橋ィどころか川の姿も拝めねへ。池ッぱたの漆喰壁風の資料館[※10]、ずいとへえりァけふはなんとかの日なんで木戸銭ァいりやせんと大盤振る舞い。こいつァありがた山。なにはともあれ取ッ付きの床几で腰ィ休めるンだが、どうも痛くて落ち着かねへ。建て込みの鼻緒問屋の帳場めえに腰かけ、次にァ長屋の駄菓子屋の上がり框(かまち)で一休み。隣の銅壺屋(どうこや)の縁先でもまた一休み。けふはどこに行っても落ち着かねへ。しょうがねへから又外へ出て、広小路ィぶらついて、目ッけた水茶屋でところてん。そこにも長居はできかねて、通り渡って伊太利水茶屋。特急珈琲(エスプレッソ)なんと百と七拾円の大安売り。なんとか時ィつくろって、路次ィへえって黒門亭[※11]。「すいませんねェ、前が押してましてトもぎりの姐さん。「すまねえが腰がいてえト駄々こねて椅子ゥ巻き上げ、番太[※12]よろしく路次の番。
 やがてお待たせッてんで木戸が開き、席へゝえりァ畳敷き。うれしいぢァござんせんかい。入込みにァなってやすが、聞きァ四拾人でいっぺえだそうで。こいつァまるで、江戸の比の寄席だゼ。高座ァまずご挨拶代りに前座が一人、次が柳家初花(しょっぱな)が大工調べ、三人目があっしのお目当て橘家文左衛門、イヨッ待ってましたッてネ。先月のぶくろ(池袋)の演芸場で初めて聞いて、腹ァ抱えて笑わせてもらひ、はらわた(腸)の芯まで血の巡りがよくなったッてンで、けふハその追ッかけヨ。お人好しの泥棒の咄ダ。それにしても文左の咄ッぷりハ間合いがいゝ。わざとらしくねへ芸がいゝぢァありやせんかい。性根がとぼけてゐるンだろうねえ。とぼけて見せてるンぢァねへのが見てゝ聞いてゝ厭味がなくて気持がいゝヤ。跡(後)は鈴々舎馬生。トリは代演で古今亭志ん彌、演目は愛宕山ッてのかね。あっしァ初めて聞く咄でやしたヨ。このお人の声にァ志ん朝を思ひ出させる艶がありやしたネ。咄ッぷりもどことなく似ておりやすし、アヽ志ん朝も聞きてえなァと思ひやしたのヨ。太鼓に送られて外ィ出りァ空はまだ明るい。いゝ風に吹かれての夕でやしたゼ。

附(つけた)り
[※1]浅六。浅草六丁目停留所の略。
[※2]蓮玉庵。創業1860(安政6)年の老舗蕎麦屋。http://gourmet.yahoo.co.jp/0000744823/M0013004792/
[※3]けころ。最下層の淫売。ちょんの間、二百文。五十文のもいたと言う。上野山下(現上野駅前広場)から黒門町にかけて多くいた。ほとんどが素人で今に言う主婦。着飾らず普通の形(なり)だった。蹴転がしの略。
[※4]ぎゅう(伎夫)。吉原で呼込みをする若衆。その呼び名をここに当てた。
[※5]守田宝丹。延宝8(1680)年創業の漢方薬店。株式会社守田治兵衛商店。http://www10.plala.or.jp/hotan/
[※6]道明。帯紐屋。元糸屋。http://foohome.com/kimono/doumyou.html
[※7]上野の藪。上野藪蕎麦。http://www.katsuobushi.co.jp/soba/tenpo/tt/tt002/tt002.htm
[※8]十三や。つげ櫛の製造販売で知られる。元文元年(1736)創業の260年の歴史がある。櫛の音が苦(九)と死(四)なのを嫌い、足して十三とした屋号は有名。http://www.aurora.dti.ne.jp/¯ssaton/syouten/doumyou.html
[※9]伊豆栄。鰻割烹。http://r.gnavi.co.jp/g063800/
[※10]資料館。台東区立下町風俗資料館。http://www.taitocity.net/taito/shitamachi/
[※11]黒門亭。落語協会の寄席。http://www.rakugo-kyokai.or.jp/Map.aspx?ID=6
[※12]番太。街角の番小屋の番人。通称、番太郎、番太と呼ばれた。多くは老人。町の雇い人。駄菓子や焼き芋を売って生計の足しにしていた。

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2008年5月17日 (土)

帯賑隠居戯(おびのにぎわひいんきょのしゃれ)

 いまもあるのも知れねえが、乃木神社に露店の骨董市があって、根付ェ目ッけたのヨ。かれこれ二昔もめえ(前)のことだ。一つァ山賤(やまがつ[※1])、残るァ杖突き爺サ。どっちも象牙だゼ。山賤ン方は、手に鉈ァ持って束ねた榾木(ほだぎ[※2])ィめえにしてるから、いま山仕事ォ終えたとこッて風情ヨ。頭巾かぶり、山袴[※3]履いてゐる。上着の肩と袖口にァ当布してるッてえ細工の細かさサ。その上ヨウ、細ッけえのハ、上着はつる\/に磨き上げてあるが、山袴ァ梨子地仕上[※4]サ。手ェ抜かねえネ。仕事ァこうぢァなきャいけねえ。ひっくりけえすと底に光山ト銘が彫ってある。あっしァ根付のせけえ(世界)にァくれえ(暗い)から、この職人さんがどんだけのもんかは分からねへが、山賤とは言へ、顔の彫がいゝ。穏やかに微笑んでゐなさる。この福相は山賤どころか、お公家にしても可笑しくねヘゼ。
 爺ァ隠居だネ、きっと。右手にァ杖突いて、腰に廻した左手にァお数珠を下げておいでヨ。いまァ寺ァ参りのけえりッて心づもりなんだろうねェ。それにしてもこれェ造った根付師も工夫が細かいヨ。その数珠の輪ン中から穴ァ開けて、そこに組紐ォ通す仕掛けにしてあるのサ。洒落たことするぢァねえかい。天窓(あたま。頭)ハ月代剃ッたァ髷ヨ。羽織ァ山賤の仕上げトご同様。すべ\/に磨きあげ、長着ァ艶消し。羽織ァぞろりと絹物、長着ァ艶消しの仕上げ。絹は絹でも結城の紬ッて心ぢァねへかネ。ひっくりけえすと、銘は白之と読める。足にァちゃんと草履ィ履かし、藁の縒り目まで彫ってあるッてえ念の入れ様ヨ。こっちの顔だちも穏やか。目尻ィ下がって、にこ\/してござる。あっしもこの根付爺ィ見習って、いつも笑顔でゐねへといけねへやネ。
 そんでもって、この根付ェ活かして印傳で小箱を誂えやして、使っておりやしたんだが、愚息が所帯持ったときに、そンぢァおめえたちにやらあッて上げたのよ。気前がよくなッちまって、嫁にァ黒檀の根付。こいつァ赤子が盥で行水してるッて細工だ。跡(後)でこいつァまずいもん上げちまったかなッて悔やみやしたゼ。息子たちァ子どもはつくらねへッてのっけに挨拶がありやしたのにネ。こんなもんやるト早く孫ゥ産めッてェ厭味になっちまうかッてね。でもモウ上げちまったンだから、取り返しァつかねへヤ。ほかに結城の対の着物も上げるハ銀延べの烟管もッて持たせたら、傍にゐるのが「あんた死ぬンぢャないのかいッてネ。目が効くぜえ、家のハ。翌年(よくとし)だッたかにあっしァはらわた(腸)に穴ァ開いての七転八倒。図星の危篤ヨ。そんでも性懲りもなく娑婆に踏みとゞまって、かれこれ十年の余、いまだもってなんと息ィしてるッて渋太さサ。
 だもんで、親父ァ死なねへなッて見切りつけやがったか、一度はもらったがあの世へ行くまぢァ預けておくからッてんで、息子が戻してくれたンが、この印傳の小箱付の根付ッて次第ヨ。この箱にァいまァあっしも懐電話なんて洒落たもん持っておりやすんでね、そいつゥ忍ばせておりやすのサ。
 どっかでこの根付ェ帯に挟んでふらついてるぢゞい見かけたら、声かけてくんな。杖突いたほんもん(本物)のぢゞいが杖突き爺の根付ェ帯に挟んでるなんて洒落がきいておりやしょう。お茶ぐれへご馳(ち)になってもよござんすゼ。

附(つけた)り
[※1]山賤(やまがつ)。山中に住む樵や猟師のこと。
[※2]榾木(ほだぎ)。囲炉裏などで燃す細い枝や木など。
[※3]山袴。裾を絞った山や畑仕事用の袴。カルサン(軽衫)とも。カルサンの語源はポルトガル語の説がある。
[※4]梨子地仕上。梨の皮のようにざらざらした仕上げ。

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2008年5月13日 (火)

新仲勇錺職(あさくさいさみのかざりしょくにん)

 雷門くゞり、人の波に押されながら仲見世を、半ばで鳥渡(ちょいと)遠いが観音さんに目配せで挨拶し、ついッと脇の新仲へ。こゝも変わらぬ人の波。いつきても浅草ァほど人の寄るとこァねえンぢァありやせんかねェ。呉服や、扇子や、下駄やに食べ物や、あれやこれやの見世が並ぶ中、一軒ぽつんと戸ォ下ろしたそのめえ(前)に、露店の商い。周りの賑わいそこだけ空いた間(ま)がけえって目立って立ち止まり、覗き込みァ小机の上に並べた細工物。脇の電燈に光ってゐる。その机の縁の小さな万力に金(かね)の板ァ挟み、一心腐乱に糸鋸で切る男は藍染丼腹掛けの見ての通りの職人姿。「ちょいと兄さん、見せてもらうよト屈み込んで覗き込みァ、並べた品は板金ァみんな銀ヨ。その長四角の板に文字やら鳥の翼だのが切り抜かれ、キラ\/やわらかく輝く美しさ。こっちの挨拶に上げた面ァきりッと締まった勇(いさみ)顔。こいつァいゝ仕事しゃしょうねェ。「こりァ銀だネ。「へい、ご注文でお名前だのゝ文字を切り抜いておりやしてト値を言ったが、その価は四千円(しせんえん)で釣がくるンぢァねえかといった控え目値段。出来合い買うのと誂えぢァ、愛着がまったく違うッてものヨ。「あっしァ錺(かざり)ッてェこの文字が好きでしてねェ。そいで名乗っておりやすのサと出された名刺にァ錺屋の屋号。なめえ(名前)の横にァ職人の肩書。意気地が知れるねェ。「前は浅草におりやしたんだが、いま栃木からこゝに通って来ておりやしてト毎週木曜、この高久人形店の横の見世めえを借りて、出してゐるンだそうで。「頼まれてネ、烟管だの簪(かんざし)も造りやしたヨ。ト聞きァあっしも黙ッちァいられねへ。さっそく取り出す女持(めもち)の銀延べ。「烟管をお作りかい、あっしのこいつァどうだい、お気に入りの自慢もんなんだがネ。ト手渡すと、「こいつァすっきりしてよござんすねェ。でもあっしならこの胴に銀の板で龍を切り抜き貼り付けやすねェ。なるほど、そいつもかっこ(格好)がいゝ。「へぇ旦那、その脇に下げてるもんはなんですかい。ト腰に下げた印傳の小箱をめざとくめッける(見つける)。「こいつァ懐電話入れサ。気に入った根付が手にへえったンで、誂えてもらったもんだ、見るかい。ト帯からひッこ抜く。こいつの売りは誂えの小箱よりも根付だが、このわけえ(若い)職人はそいつをちゃんと見抜いて根付を眺め廻し、「こりァいゝ顔に彫れておりやすねェト微笑む。そうヨ、人を彫ったものハ顔が命。髷のぢゞいが杖を突き、片手に数珠を下げて微笑んでゐる。こいつァまったくあっしの姿ァ彫ったようなもん。杖を頼りのぢゞいが、おんなじ杖にすがるぢゞいの根付を帯に付け、町ィ歩くハお笑いの洒落。どうだいおもしれへ(面白い)だろふト顔を見合せ笑ったひとゝき。
 浅草行ったら、新仲の錺職人の露店、錺屋を覗いてごらんなせえ。気にいったら名前の一文字なり彫ってもらやァいゝ根付になりやすゼ。赤い帯の脇にそいつゥぶら下げてカラコロ歩きァ人も振り向くきゃん(侠)にならァな。

附(つけた)り
てづくり工房「錺屋(かざりや)」携帯090-8513-8747  出店先・浅草新仲見世「高久人形店」横にて毎週木曜日。

2008年5月12日 (月)

正蔵華落語(しゃうぞうはなのわげい)

 ぶくろ[※]の演芸場で二へん正蔵の噺ィ聞きやして、二遍ともこいつァなんだぜッて目から鱗でぞっこんになりやして、あっしにしちァ初めての追ッかけの真似ッこでもしてみッかト、こないだの四日に上野鈴本へ乗り込みやしたのヨ。日付ァあっしのことだから天保暦だゼ。いまのお方にァ西洋ローマのグレゴリオ暦の方が馴染みでやしょうから、そっちで言ふと5月8日木曜。鈴本新緑席と銘打ってこないだの10日まで正蔵が昼のトリを勤めておりやしたもんでね、行ったッてわけヨ。
  さすがに鈴本だねェ。こゝの席亭さんが、こぶ平ッて言ったかねめえの名ァ、そいつにァ正蔵の名跡継がせてもいゝンぢァねえかと、こいつにァそんだけの力があるはずッて見抜いたンだッてね。えれへもんだゼ。
  咄ァ変わるが、途中で鈴々舎馬風が高座に上がりやしたのヨ。鳥渡(ちょいと)不思議な縁だなァと思ひやしたゼ、あっしァ。馬風の高座ァ観るのハこれがたったの二度目。いっぺん目と今度との間にァ十六年の歳月が流れておりやすンだが、いッぺん目ンときにあっしァ馬風に助けられたやふな気ィしておりやすのヨ。その比(頃)のあっしァ柄にもなくへばるくれえ働いてたと思ひねえ。そいでもってゝめえでも分かるのヨ。にこりともしねへンだ。いッつも苦虫噛みつぶしてンのヨ。さすがにこれぢァいけねへなと気づきやして、とにかく笑いに行くべえト鈴本へ行ったわサ。時刻も適当、途中からへえッたら、馬風が高座で手拍子打ってンのヨ。そいで客にも一緒にやれッて言ってやがる。なァに莫迦な真似しやがってトあっしァ中ッぱら(腹)になったンだが、おッとけふ(今日)は笑いに来たんだッてんで、あっしも莫迦になって一緒に手拍子打ってたら、なんか楽しくなって来てねえ。その跡(後)苦虫の付もんが落ちやしたのヨ。馬風さんよう、ありがとヨ。で、不思議な縁ッてのはじつァ最初ンときとこんどとが、思えばあっしァおんなじ着物で来てンのヨ。衣更の四月一日ァ西洋暦の5月5日だったから、単の結城ヨ。縦糸緯糸ともに手紬、薄手でふんわりしてゐてあっしのお気に入りサ。間に十六年の時ィおいて、たった二遍なのに二度ともおんなじ着物で高座ァ聴くッてのは、こりァ縁だゼ。そう思わねえかい。
 で、咄ァ正蔵ヨ。途中に上手い芸人が幾たりも高座に上がるわなァ。さすがに鈴本、素人のあっしが観てもこいつァ下手ッてのハでねえ。でるのは上手ばかりだが、その上手にもいろ\/あって、上もありァ下もある。見たり聴いたりしてゝ半ばでふッとまだこのお人の芸はつゞくのかなァト鳥渡辛さァ覚えるときがありやすのサ。そうしたいゝもわりいもひっくるめて、たくさんの芸人さんの跡、はなッからかずえて(数えて)二刻も跡に、やっとトリの正蔵サ。こっちもいゝ加減へばってる。ところがだゼ。正蔵が枕ァ振って、すいッと本題にへえった比にァこっちもすッと引き込まれてる。この椅子に二刻の余も腰掛けてた疲れなんぞすっかり忘れてサ。そいではッと気づくとめえの時めてえに、高座の正蔵の後の板戸が消えてゐるのヨ。周りァこっちの目にァへえっていねえッてわけだ。めえてる(見えてる)もんは正蔵だけ。吸い込まれておりやすのヨ。こりァ力だねェ。芸磨いてゞきるもんぢァねへトあっしァ思ふヨ。生れもったもんでやしょう。華ッてのはこれかト思ひやしたネ。なんたってけふの正蔵の落語ハこのめえも聴いたもんなんだ。そいでもこっちィ惹きつけやがる。その噺知ってるヨ、先ァこうなるよッて分かっていても、引きこまれてンだ。あっしァ正蔵の高座、こいで三遍目。吉原で言やァ馴染みヨ。箸袋[※]に喜三二様ッて書いてもれえてえくれえの、勝手馴染みにあっしァなりやしたヨ。贔屓するから、これからも華ァ輝かしておくんな。頼りにしてるゼ。

附(つけた)り
[※]ぶくろ。池袋の短略語。東京語か。
[※]箸袋。吉原では初会、裏、三度目の登楼で初めて馴染みとなって花魁に認めてもらえた。馴染みになると名前を書いた客専用の箸袋が用意された。

花散久羅无(はなのさくらん)

 天保暦の今夜、卯月(四月)の七日(西洋暦5月11日)、あっしァ運のつえゝをとこ(男)ヨ。小屋へいかねへと駄目かと思ってゐた活動写真のさくらんォ、塒(ねぐら)で見せてもらいやしたヨ。越気丁児(ゑれきてる)の絵箱でネ。放送局の大盤振る舞い。木戸銭なしのただ見だゼ。いゝのかね。なんか買わなくてもネ。途中で咄の筋ィ突然ぶった切って、あれ買えこれ買えッていろ\/見せてくれるンだが、あいにくなんも欲しいもんはなくって愛想なしで付合できねえ不調法で勘弁してもらいやしたがネ。
 外題のさくらんッてのハなにかね。錯乱ッてことかね、それともさくらむッて書くとこ、けつのむヲ当世風にんで書いたッてことかねェ。あっしァ見ながらずっと気になってしょうがねェのヨ。外題ッてのハ戯作者のいっち力の入れ何処だからねェ。そこに始まってそこにィけえって来て終わるッてしろもんだゼ。トあっしァ思ふネ。
 で、なんだぜ。初っぱなからけつッぺたまでずっと見せてもらいやしたが、なんてえことねえネ。清騒(すがゞき)を聴かせてもらったンと、花魁の横兵庫髷を見せてもらったンが目ッけもんでやしたねェ。おッとそれに花魁道中の外八文字、元丹前の湯女で鳴らした勝山が始めたッてェ歩き方があれかねェ。やっぱり公家から出たッてえ京廓の内八文字に比べりァずっとをとこッぽくてそゝりやしょうねェ。
 咄ァ筋ィ追っかけて一応本の場面は全部撮りやしたッて感じで、別にどおってことねえネ。夏木のマリ姐さんが大見世の女将らしいンだが、遣手みてえに見えちまいやしてネ。ご亭(と)さんハなんとか蓮司ッて役者さん。このお人、こういった性根のわりい役相変わらず上手いねェ。感心するゼ。あっしァほんの新吉原しりやせんので、なんとも言へねえがネ。目学問耳学問の書生ぢゞいだから、マ間違ってたらごめんなせへッてことヨ。花魁の切なさ、悲しさ、嫉妬、苛立ち、なんだのかんだの、けっきょく一刻見てゝ、色と音ァあふれていたが、その割りにァあっさり薄味でございやしたなァ。マこんなもんかネ、ちか比(頃)のハ。

附(つけた)りは今夜は遅いから、また日を改めてッことで、今夜ンとこは勘弁してもらいやすヨ。

2008年5月10日 (土)

二合半田楽舌鼓(こなからおでんのあじわひ)

 東京で言ふおでんを浪花ぢァ関東炊きッて言ふと聞いたことがありやすが、これから考えるッてえとおでんは東京が本場ッてことになりやしょう。トなりァ東京の本家ァお江戸だから、お江戸におでんがあったかッてへと、それがわかんねへのヨ。江戸の手引書みてえなもんに、守貞満稿ッて書がありやしょう。ソウ喜田川守貞ッてお人が幕末の江戸で目につくもんをなんでもかんでも綴ったもんで、いまで言やァ百科事典みてえもんさネ。こいつゥひっくりけえしても、鍋で煮るいまみてえなおでんハ出てこねへヨ。書いてあるのハたったこれだけヨ。読んでみねへナ。「上燗(じょうかん)おでん 燗酒と蒟蒻(こんにやく)の田楽を売る。江戸は芋の田楽も売るなり。[※1]」、この跡(後)に、売り子の風俗に特別のこたァねへから図は描かねえと書いてあるだけヨ。おでんトハ言っちァゐるが、中身ァ田楽の咄ヨ。てェことハ熱い湯で煮てその熱々に味噌ォ付けて喰ふヲ田楽ッて言ひやしょう。だからいまの世ぢァ、おでんト田楽ァ別もんになっておりやすもんねェ。あっしァ江戸狂いだから他に江戸ッて書いてある本は片ッ端から読みやすが、いまの世で言ふおでんに出会ったこたァいっぺんもねえのヨ。似てるもんとしちァ煮染めだが、煮染めとおでんは曰く言い難しッてやつでまた違いやすもんねェ。
 そんなこんなでッてェことでもねえが、こないだハお多幸の甘味に甲斐性もなく負けちまったあっしとしちァ、どっかで仇ィ打たなくちァなんねへッてわけで、今度は湯島聖堂へ伸(の)したのヨ。あすこらへん(辺)ハなんだゼ。平成の御代のいまでも、暮れ六ツ過ぎくれへでも追剥がでそうにさびしいねェ。そこを独りとぼ\/歩いて行くッてえと跡(後)からぺた\/誰かくッついて来るのヨ。薄気味わりいなんてェもんぢァねへ。振り返っても誰もゐやしねへ。なんのこたァねへ。てめえの雪駄の音ヨ。こいつァたまんねッて路次ィへえると暗がりに赤挑灯(あかてうちん)。うれしやありがたや、こなから[※2]ヨ。門構えに御影の石畳、植え込みの間ァ四五歩で格子戸。する\/ト明けりァ中ァ静かだが人がいっぺえの活気ヨ。たいしたもんだゼ。辺りァ人ッ子一人通ッちァゐねへのに、おでん鍋びっしり囲むだけの人が寄るンだから。これも旨いもんのお蔭ッてやつだ。商売正直にしてりァお客さまァ寄ってくださる。お客さまァ神さま。おットいけねへ、こいつァ誰かさんの科白(ふりふ)だったゼ。「いらっしゃいませト女将の声に一つ空いてた席に割り込ませていたゞいて、酒を一合ぬる燗でと、久しい[※3]文句で誂えて、サテおでんハ何をト鍋を覗き込むが、鳥渡(ちょいと)遠くて中身ァ見えやせん。歳ァ取りたくねへネ。目が駄目だ。こゝンちァ鍋が売りヨ。四角が普通だが、銅壺屋(どうこや)に特別誂えで打ち出させた瓢箪形。その後(うしろ)で取箸持って差配をしておいでの女将が「うちぢァ突出(つきだし)が三品(みしな)なんですよト酒と一緒に小鉢が三ツ。これで酒ェなめ\/箸ィ運んだら、おでんまでたどり着かねへうちに腹ァ出来あがッちまうンぢァねへかトあっしァしんぺえ(心配)になっちまったヨ。
 口ィ宝珠形に開いた徳利傾け、ぐい呑みでなんとか三品(さんぴん)片づけ、サテお待ちかねのおでんトなりやして、まず玉子、豆腐にでえこ(大根)。分厚い色白でえこハ見ると真ン中を瓢箪形に打ち抜いてあって、抜いた中子(なかご)を上に添えてくれてゐるッてェ趣向サ。上から見りァちッせえこの瓢箪、厚みはたっぷりあって乙[※4]だが、なか\/の愛嬌者。食べるにァちょいと惜しいが、ありがたくいたゞきやした。薄味、\/。この味の香りァどっかで覚えがあるゼ。ヱヱとうんソウ椎茸ヨ。この三品(みしな)で酒が上がり、さて飯にァまだちいト足りぬで、京厚揚げト昆ン布を頼んだ。この京ト銘打つ厚揚げァ一寸四方ぐれえのもんだが、六面が揚がってゐるッてえ代もんサ。「茶飯ァありやすかいッて訊くトお生憎さまご飯はござんせんッてんで、ハテなんで腹ァ〆るかト品書き眺め壁の白い黒板見まわし目ッけたのが蓬(よもぎ)すいとんヨ。懐かしいねェ。戦後の欠食児童のあっしとしちァすいとんハ大(おほ)ご馳走。「あら、こめんなさいな、すいとんト言ってもうちのハこれッぱかりのもんでト女将が指ィ丸めて大きさ示す。あゝいゝよト鷹揚に頷いてお頼みいたしやしたら、出てきたすいとんハ丸い金鍔くれへのもの。それがおでん種になってゐたッて仕掛けのようサ。あれもこれもぜんてえにさっぱりした味つけ。濃口醤油の色に馴れた江戸東京たァちょいと違う上品サ。もしやこれが関東炊きかト独りごち、雪駄の音ォお供にお壕端までとぼ\/トけえってめえりやしたッてわけヨ。お代は〆て野口の先生よったり(四人)と贋銀の大と中のいちめえ(一枚)ッツ、〆て四仟六百両。

附(つけた)り
[※1]守貞満稿。「近世風俗史(守貞満稿)」喜田川守貞著・宇佐美英機校訂(岩波文庫)※満、正しくは言偏。
[※2]こなから。おでん屋の屋号。http://konakara.com/top.html 「こなから」とは、漢字では小半と書く。四分の一の意。一升の四分の一で、二合五勺の意。安永七年・広街一寸間遊「酒を小なから」
[※3]久しい。例によって例のごとし、の意。安永二年・当世気どり草「久しいもの、かびがはへると笑わる」
[※4]乙。甲乙丙丁の乙。したがって最上級の甲に対して少し落ちたもの、変わったもの、の意。変わっているけども返ってそれがいゝなどとの意味で、乙粋などとも言われ、この言葉が頻繁に使われている内に、乙だけで粋と誤用されるようになった。ここでは元の意味で用いた。

新月謎丸太格子(やみよのなぞまるたがうし)

 ついこないだ、銀座から日本橋ィ引ッ越したお多幸のことを書きやしたが、モ少し甘くねへおでんでぺえいち(一杯[※1])ト思ひ、別ンとこに行きやした。そいでその咄ァまた改めて書きやすが、けふハまた別のおでん屋のことヨ。あっしァわかんねへことがあるッてえトそいつが謎になッちまって、そのまんまほッとくことができねへ性分でしてネ。なんとかしょうてえ(正体)見届けてやらふッてネ。そうしねへと心持ちが悪くッてしょうがねへのヨ。なんでその見世が気になるかッて云やァ、ちか比(頃)乗合に凝っておりやしてネ。ェわかんねへッて面ァしねえで、まァ聞きねえ。浅草の行きッけえり(帰り)に使っておりやすのサ。このバスッてもんも便利なもんでネ。いまあっしにァ都合のいゝ乗もんでして。着く時刻ァそう\/きっちりしちァおりやせんが、なんせ素浪人の隠居の身、ご用とお急ぎァ[※2]ござんせんので、乗せてもらってるッてわけでしてネ。
 駒形のどじょう[※3]、ソウどぜうッてのうれん(暖簾)掲げてるあの見世ヨ、あすこで筏[※4]と柳川[※5]でいっぺえ(一盃)決めて、乗合に乗ったと思ひねえ。二天門[※6]の停留所出てじきだァな、鳥渡(ちょいと)渋い構えの見世が目にへえッたのヨ。半紙二枚程の白紙に、昔の味おでん東京の味ッて書いて貼り出してありやしてサァ。見世の屋号がいゝねェ。今出来の見世にァこういった洒落ッ気ァありやせんゼ。丸太ごおしッてンだ、どうでえ、驚いたかい。見りァ脇の窓の格子ァちゃんと杉の細い丸太造りヨ。こりァあれだぜ、藪トおんなじヨ。ェわかんねへかなァ、やんなッちまうゼ、おいらァ。ヱヱじれってえなァ。そうぢァねえか、いまァ藪ッて屋号付けてる蕎麦の御三家[※7]、あの元は団子坂のつたや[※8]ぢァねへか。こんな立派な屋号があったンだが、気のみじけえ江戸ッ子ァそんなもんぢァ呼ばねへのヨ。脇ィ藪があったから、みんな藪々ッて呼んでゝ、そいでそれが通り名になって、しめえ(仕舞)にァ屋号になッちまったわけぢァねへかい。それとこの丸太ごおしァ、きっとおんなじ伝だゼ。こいつァ江戸ッ子修業をかんばん(招牌)にしてるあっしにとッちァほッとけねへヨ。
 でさァ、ちょいと下調べッてんで、電子探索網(ねっと)で、丸太ごおしッて入れて、ぽんッてやったと思ひねへ。ところが、出て来たンはたった一つ。それもあるお人が綴った文の中に、申し訳みてへに数文字ッてありさまだゼ。このなんだって電子探索網でわからねへものハねへッてご時世に呼べど探せどまったく他に誰も書いてねへッてのハいってえぜんてえ(全体)どう言ふことなのかねえ。まるで月のでねえ新月の闇夜に烏が飛ぶようなもんヨ。まるで見えねへッてやつだゼ。いまどきこれだけしょうてえ見せねへ見世ッてものもねへンぢァねえかい。あっしァなんとしてもッて気になッちまったッてわけヨ。こゝに書き抜かせてもらったから、マァ読んでみねえ。
「夕食は透き通った出汁の大多福か醤油色の濃い丸太ごおしにしようかと迷ったが、丸太ごおしは9時半で店を閉めると言うので(TOMITのくいだおれ日記[※8])」ッてんで、お多福へ行ッちまったッて咄ヨ。この醤油色の濃いッて一言が、たまンねえぢァねへか。そゝりやがってヨウ。アヽどうしてくれよう。そんときィ丸太の方行ってくれてりァ謎にならねへものをサ。あっしァいら\/するゼ。ちけえ(近い)うちに、こいつァなんとかしなきァ、おさまらねえわいなァ。

附(つけた)り
[※1]ぺえいち(一杯)。倒語。幕末の江戸の通人の間で流行った。古典落語にも、やしッツあん(質屋さん)、ちんたな(店賃)などと使われている。
[※2]ご用とお急ぎ。露天商などの啖呵売(たんかばい)の決まり文句。ご用とお急ぎのないお方はト通りがかりのお客を呼び止める言葉。
[※3]駒形のどじょう。泥鰌料理で名高い駒形どぜう、のこと。http://www.dozeu.com/dozeu_fl/info/info.html
[※4]筏。泥鰌を姿のまま横に数本串刺しにし、鰻の蒲焼に似たタレで付焼にしたもの。形が筏に似たところからの名。
[※5]柳川。泥鰌を開いて頭と骨を除き笹掻き牛蒡と一緒に玉子でとじた料理。
[※6]二天門。浅草寺の東側、馬道側にある門。徳川将軍の参拝時用に建てられた。http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/asakusa/nitenmon.htm
[※7]藪ッて屋号付けてる蕎麦の御三家。神田、並木、池之端の藪蕎麦を称し藪御三家と呼ぶ。
[※8]団子坂のつたや。幕末、団子坂(現文京区千駄木二、三丁目の間の坂)の崖ッぷちで竹藪に囲まれた処にあった。明治十四年廃業。
[※8]TOMITのくいだおれ日記。http://plaza.rakuten.co.jp/tomit/diary/200501220000/

2008年5月 6日 (火)

夕立大仕合茶飯(やらずのあめおたこのちゃめし)

 十年の余、山ァ籠もっておりやしたら、無性とお多幸のおでんに情が湧いてしょうがねへ。そのくせ、お江戸に舞い戻って来たら来たで、江戸前の蒲焼だの蕎麦に気ィ取られ、お多幸ハ天窓(あたま)の隅ッこにおッぺしちまって、気にァなってるんだが行く間がつくれねへ。いっぺん数寄屋橋の四ツ辻から元数寄屋町三丁目[※1]の小路へゝえり見世のめえへ行ったが、あっしが所場(しょば[※2])ァ留守にしてる間にすばッしっこい紅毛人が地べた買い占めて見上げるよふなもんをおッ立てちまって、見世ァ影も形もありァあしねへ。
 その内、テレビの頼りで日本橋へ引き移ったと知ったンで、なんとしてもトついこないだ御神輿上げたッてわけヨ。鳥渡(ちょいと)行きがけの駄賃ぢァねへけど、用が一つあってそいつゥ済ませてたら突然の夕立サ。通りィ見りァ車がしぶきィ上げて走っていやがる。出るに出られぬ遣らずの雨サ。主さんまだ帰ンなくてもいゝぢァないかい、なんて色気のある用ぢァねへから、ぼんやり待ってるうちに日はとっぷり暮れにけりサ。
  日本橋の新店(しんだな[※3])の引戸開けると銀座ンときよりも心なしか見世ァ小振りになっておりやしたネ。繁盛は相変わらずで、いっち奥の席しか空いていねへ。そこがやけに熱いとこで、なんと目のめえで串ィ焼いておりやすのヨ。銀座ンときァ確かおでん一本ン槍だったと思ふが、そうもいかねへご時世になッちまったのかもしれねへネ。
 まずぬる癇を一本、豆腐玉子厚揚げを誂えやした。お多幸ッて言やァあっしにとって忘れられねへのが、豆腐ヨ。薄く平べッたく切った絹ごしみてえな柔らかい豆腐をおでん鍋ン中に縦にびっちり詰めて煮ておりやしてネ。めえの銀座の見世ンときァ、見るたんびにこいつァ芸だなァと感心しておりやしたものサ。それに玉子、厚揚げも大の字付の好物。この三品抜きのおでんは考えられねへ。これでゆっくりぬる癇を楽しみ、腹づもりとしちァ茶飯で〆るッて寸法ヨ。
 まず箸を付けたのは言ふまでもねへ、豆腐サ。舌の上にのせておどろいたねェ。えらくあめえ。お多幸のおでんは元々甘めと濃口醤油の味がつえへ。そいつァ承知の上だが、こんなに甘かったかトあっしァ鳥渡(ちょいと)めえッてネ。すっかりてめえが柔(やわ)になってることにおどろいたのヨ。銀座にゐた時分にァまだ若気の威勢が残ってる時分だったから、ものともしなかったンだろうねェ。すっかり薄味のぢゞいになッちまったいまぢァこの味に負けちまうだらしなさヨ。あっしァすっかり自信なくしちまったゼ。そいでも三品滞りなく平らげ、酒も最後の一雫まで飲み干したネ。
 デ跡(後)ァ飯だが、なんぼ好物の茶飯とておかずなしぢァ侘しいンで、昆布巻きと大根を追加で誂え、そいつゥ充てに腹ァつくりやした。醤油色に染まった大根、蕩けるよふに柔らかく煮えた昆ン布、濃いめの味が茶飯と合いやしてねェ。初ッぱなァ甘過ぎると思った味もいつのまにやら気にならなくなッちまったッてわけサ。仕上げに女持(めもち)の銀延べのせるき[※4]で一服。雨上がりの町ィ出るトづぶ六[※5]の一団がでけえ声で騒ぎながらやって来やがった。扶持もんたちァ[※6]相変わらず群たがるンだねェ。こっちァ一匹浪人ぢゞい。道ィ譲ってすれ違ったが、こんな夜更けにァ仲間がゐるのもいゝもんだろうねェ。

附(つけた)り
[※1]元数寄屋町三丁目。現、銀座5丁目5番地。
[※2]所場(しょば)。場所の倒語。言葉をひっくり返して言うのは、江戸末期の通人の間の流行。それが浅草の軽演劇や軽音楽の人々の間で伝承され、現在もジャズメンがモダンをダンモ、ジャズをズンジャなどと言う元となっている。
[※3]お多幸本店(日本橋新店)東京都中央区日本橋2-2-3  http://www.tokyo-gourmet.net/restaurants/otako/index.html
[※4]せるき。煙管、烟管の倒語。
[※5]づぶ六。泥酔した状態、転じて泥酔者。づぶ、づぶ七とも言う。安永五年・契国策「いまのせた土左ヱ門めは、しつかりものゝくせにづぶ六で」、安永三年・柳多留九「づぶになるつもりで下戸を誘ふ也」、文久カ・春秋二季種四上「帰るあれば来る客は、づぶ七ぐらゐの二三人」
[※6]扶持もんたち。サラリーマンを洒落て言った。

2008年5月 4日 (日)

八人目出会青山(すゑひろであひのあをやま)

 こゝんとこずっと躰のちょうつげえ(蝶番)の按配がよくねへ。デ整体の先生ンとこに通ってるッてわけだ。右の足首ァわけえ(若い)時分に捻挫しやして、ほんの鳥渡(ちょっと)内側に捻れたまンまヨ。腰ァ岩登りなんてなんの役にもたゝねへことやってゝ、落ちやしてネ。そんとき軽く打ってやっぱり内側へちっと曲がってゐるらしいのヨ。首と肩ァ久しく物書き職人やってたお蔭ですっかり躰が出来上がっておりやして、ご丁寧に右とめえ(前)にずれてるッて始末サ。
 昔ァ骨接ぎァお江戸ぢァ名倉[※1]が有名でやしたねェ。ありァ先生のお名前でやしょうが、流派みてえな感じで呼んでおりやしたねェ。そいで骨接ぎたァわざ\/誰も言はねえ。名倉で通っておりやしたね。あっしが通ってる先生は、名倉ぢァねへヨ。話してるうちに、ちょいと昔のこと思ひだしての横丁ばいりサ。
 で、時間に行きやして、着替えをして小部屋で待っておりやしたら、口[※2]の洋暖簾(カーテン)が開きやして、長い髪のをんな(女)が面ァ覗かせて、へら\/ッて笑いやがんのヨ。あっしの療治ィしてくなさる先生はをとこ(男)ヨ。まだわけえが、ご自分の仕事に正直お方ヨ。あっしァそんとき眼鏡外してゐたんで、覗いた面ァはっきり見えねへ。なんだト目ン玉力ァ入れて見直したら、なんでえてめえかァ。あっしが腰ッぽねがずれて歩くにも難渋するッて泣言々ったら、だから早く行きなさいよッてこゝの先生を紹介してくれた親の代からの古馴染みヨ。
 去年の秋ィ古巣のお江戸へ戻ってきてからッてもの、妙にあっちこっちで知り合いにばったり出会う。けふもその手の八人目。相手ァ親の跡(後)継いで見世やってるから普段の日ァ療治にこれねへ。それが火曜日に出会ったからびっくりだが、思やァ火曜は火曜でもけふは旗日(はたび[※3])。見世は休みッてわけだ。それにしても、おんなじ先生であっしの一つめえの時間たァ、めったにねへ縁だねェ。「おわったらどうすんのッて言ふから、柳川でいっぺえやりに行くつもりよッて答えるト伊せ喜かいッてンで、うんにャ高ばし(橋)まで行ッちァけえり(帰り)が億劫だ、駒形[※4]サ。駒形の大将ならうちの見世ェ来るよッて抜かすンで、こいつと一緒に駒形行って大将に面合せでもされたら、世の中狭くなッちまって跡が窮屈だ。「うぅん、柳川かァ、でもいゝやついてッてもいゝかいッてッから、いゝヨ、だがあっしァこれから療治受けるンだ時間かゝるゼ。あたしァそこらぶら\/してるから、終わったら懐電話かけてネってで、合点承知、そこらで迷子になんなよッてからかってやったら敵も減らず口ヨ。なにィいってンだいこゝらあたいの嶋だよッて捨てぜりふ残しァがった。ついこないだまで、この脇に住んでたンだし、通った手習指南処ァ西南小学校だってンだから青山ァしょば(所場[※5])のわけヨ。
 であっちこちのがたァ入れ直してもらひ、落ち合って飯サ。敵も柳川ァすゝまねへようだし、あっしも窮屈だから、どぢゃう[※6]を鰻に換えて銀五[※7]竹葉亭[※8]の二階に腰ィ据え、暮れなずむ町ィ眺めてぱいゝち[※9]。肴二三品。上がりァ鰻重で〆てお開きにいたしやしたが、お勘定ッて段のなったら、「こゝはあたいに任せな、誘ったンはこっちだし、働いてるもんが働きのねヘぢいさんに払わすわけにァいかないヨなんていっちょまい(一丁前[※10])の口ィきゝやがってさァ、なんだかいつのまにか大人になった娘にご馳(ち[※11])になったやふな心持ち。鳥渡(ちょいと)目頭熱くなったゼ。あっしも焼きがまわったなァ。

附(つけた)り
[※1]名倉。名倉接骨医院のこと。江戸東京、昭和も戦後まで名高かった。「享保から千住にきた接骨医。門前に患者専用の宿屋ができるほど繁盛した。街道筋なので足を痛める人が多かったのである。」(海野弘「江戸の盛り場」)
[※2]口。入口の略。
[※3]旗日(はたび)。明治より国が定めた祭日には、終戦まで各戸で国旗を掲げたため、この呼び名があった。
[※4]駒形。駒形どぜう、の略。どじょう料理の店。本店 http://www.dozeu.com/dozeu_fl/info/info.html
[※5]しょば(所場)。場所の倒語。縄張り、の意。
[※6]どぢゃう。歴史的仮名遣い。他に諸説ある。泥鰌、鰌、の漢字をあてる。江戸のみならず戦後の真仮名遣いになるまでこの表記が使われた。
[※7]銀五。現在の銀座五丁目の略。三愛ビルと向いの日産ショールームのある区画は、江戸時代には尾張町元地と呼ばれた(万延「京橋南築地鐵炮洲繪圖」)
[※8]竹葉亭。鰻屋。銀座店 http://www.unagi-chikuyoutei.co.jp/ginza.html 本店は、江戸末期に京橋付近の浅蜊魚岸(あさりがし・現在の新富町)で創業。
[※9]ぱいゝち。一杯、の倒語。お酒を一杯飲む、の意。
[※10]いっちょまい(一丁前)。いっちょうまえ、の江戸訛り。一人前、の意。
[※11]ご馳(ち)。ご馳走、の後略語。ご馳になりやす、などと使う。

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