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2008年2月24日 (日)

謎出会縁參人目(なぞのであひえにしのさんにんめ)

 生れ故郷のこのお江戸の町ィ、十と三年振りに戻って来たついこないだ、思ひがけねへお二方(ふたかた)にばったり出会の授かり事。その咄ァ先に「大江戸吉縁八百八町(おほゑどえにしのはっぴゃくやちょう)の手控帖に書きやしたが、つゞいて出会ッた三人目、その思ひもしねへ出会に度重なるえにしの年。ことしァ春から妙なめぐり合わせ。縁起ァきっと花開きやしょうヨ。
 浅草は言はずと知れた浅草寺、そのご本尊観音さまト辰巳(たつみ)の角の時の鐘、脇におはする弁天さまに、二度立て続けの不義理をし、後めたさに居心地悪く、でかける用をもっけの幸い、義理立てあやまり参拝に、急ぐこの足、「オヤ、先生トとどめし旦那風の知らぬ顔。「お久し振りですねェ。お出でになるお顔見て、私はすぐに分かりましたよト笑みを見せてのご挨拶。その尊顔を拝せども、覚えのかけらもねへ始末。訊くは一時の恥、「どちらさんでしたでしょうかねェと問へば、「ホレ、大学病院でト指さす方角ァあっしの命二度までも拾ってくれた学問養生所のある、紛うことなき丑寅(うしとら)の方。こいつァまんざら人違いぢァなさそうだト思へどいくら旦那のご尊顔、拝んで見ても思ひ出せねへ体たらく。こいつァほんにあっしの知り合いかい。
「どうです、そこでお茶でもト懐かし顔で水茶屋へ誘ってくれたが、生憎あっしァ観音弁天の別嬪(べっぴん)お二方を待たせての、不義理返しに行かにァならねへ義理ある身。「そこで乗るご公儀乗合(※1)の時刻が迫っておりやすんで、ご無礼ながらこゝで失礼させていたゞきやすト別れの挨拶。「そいつァ残念トきびす(踵)を返すその旦那に「そいぢァあなたさまハあの養生所の病棟であっしの隣の洋床(べっど)にでもおいでゞト問いかけりァ「そうでございますよ能(の)お答。そこまで言はれても、その声その笑みその姿、片鱗いちめへ覚えがねへ。申しわけござんせんが、あっしにァ覚えがありやせんト言ッちァご無礼になりやすんで、あっしもにっこり微笑ンで、「そいぢァまたトお別れといたしやした。
 大江戸八百八町えにしの出会と思えでも、果してほんに知り合いだったのかねえ、あのお方。
 別れてからも謎は謎。あちらさんの勘違い、はたまた新手(あらて)の詐欺の取ッかゝりか。
「いやァ懐かしい。あれから私も命の拾い物。いまぢァ人助けと思って儲け抜きでこの品を、お分けしてゐる善意の身、養生所で袖すり合うも他生の縁、こゝで遇うのは仏の導き、祈祷祈念の長寿のろうそく、一本參萬、けふは特別、えにしの仲、半値の五割引き、七千五百円で特トお譲りいたしやしょうなんてンぢァなかろうかト、思ふこともねへぢァねへが、もしもあの旦那が実正(ほんとう)なら、こんな想像するだに無礼の千万。堪忍してくんねェ、旦那さま。あっしァおめえさんを思ひ出せねへ耄碌(もうろく)ぢゞい。おまえさまがあっしと枕並べて養生したとおっしゃる年より幾星霜、それからけふのこの日まで、何度も医者が匙投げ加減の危篤三昧手術三昧、やっとつないできた命、見かけよりも中身ァとんと惚(ぼ)けておりやす、ト思ッて許しておくんなせえ。
 出会ッた処ァお江戸八百八町のご府外の、その又外の場末も場末、ぶくろ(いけぶくろ)のぞめき(※2)の真ッ只中。妙なご縁のお三方目さんでござんした。

附(つけた)り
(※1)ご公儀乗合。公営乗合自動車。都営バスを洒落た。
(※2)ぞめき(騒き)。わいわいとしゃべりながら歩く、見物して歩く。騒(さわ)ぎ。

2008年2月19日 (火)

江戸勇誉病(ゑどをとこほまれのやまひ)

 疝気(せんき)の虫ッてえ落語がありやしょう。あれになりやしたのヨ。まぁ、鳥渡(ちょいと)聞いてくんねえ。
 去年の春ッ比(頃)からかねえ。下ッ腹が疼くやふに痛んでネ。そいつがのべつッてわけでもなえんだが、ときたま差し込むふやな捩じられるやふなあんべえ(案配)で妙な具合ヨ。なんの痛みか分かンねへのヨ。肋間神経痛ハ自慢ぢァねえがわけえ(若い)比から馴染みでやすから、それならすぐに知れらァ。どだい痛む場所が違ひやすしネ。臍下何寸なんて言ひやすが、ほんに腹の底が痛みやすのヨ。下っ腹の右ッ片(かた)にァ盲腸とッぱずした跡がありやすし、左ッかわにァ大腸に孔ァ空いたときに縫い付けた傷があるッて始末だから、そんなこんなが痛むぢァねへかとも思ったが、盲腸ハ元服(※1)した翌としのことだから、かれこれ五十年もなろうかと言ふじでえ(時代)物。いま比痛むも間抜けな咄ぢァねへか。左の大腸の穴ぽこだって六七年はたつンだから、オギァと生まれた赤ン坊が小学手習所(てならひどころ[※2])に上がらふッてくれへ経ってゐる。痛みの強いときァ尾籠な咄でなんだが、へのこ(※3)から下り物がにじんだりしやがッて始末がわりい(悪い)。あっしァ来るもんが来たなト思ひやしたヨ。つい二三年めえのことヨ。鳥渡ばかしあっしよりわけえ知り合いがをとこ(男)だけの病の前立腺癌で往生したばかし。あっしも遅ればせながらト後追い病死かと観念いたしやしたネ。男は往生際がでえじ(大事)でやすからネ。
  なんのつもりか知らねえがあっしを師匠呼ばわりするお医者がおりやすんで、あっしにも来るもんが来たらしいから鳥渡診てくんねえト訪ねたのヨ。そしたら向ふさんいつになく真面目な面ァしやがって、そりァてえへんだなんて言ふぢァねか。そんなしんぺえ(心配)いらねへッてのヨ。こちとらもう俎(まないた)の鯉、観念しておりやすヨッてのサ。だが「そうはいかねへ、知り合いにしょんべん道具を専門(※4)にしてるいゝ医師がゐるからそこ行ってちゃんと診てもらえ、ッて紹介状を一筆書いてくれやしたのサ。ありがてゑことヨ。なんせ先生、漢方の本道でやすからネ。本道ッて言へば、いま言ふ内科全般だヨ。それがだめ押しに診てもらへッてわけだ。で、いろいろ診てもらッたンたが、よく分かンねへよふで、結局膀胱炎ッてことで一件落着となりやしたンだが、その後もおんなじ。痛んだり治ったりの繰りッけへしヨ。
  その痛みハ言ってみりァ五臓六腑が落ちてきて、腹の底を押しつけるやふな案配だと言ふト本道先生が、内臓を上へ持ち上げる薬があるゼッて出してくれたのが、補中益気湯(ほちゅうえっきとう[※5])てェ薬だ。いまァ便利なじでえだねェ。煎じるなんてこといらねへンだ。粉になっておりやしてネ。そいつゥ水で飲みァいゝ。これぢァ煎じ土瓶造ってる窯元ァ潰れるゼ。
  そんこんなでそいつをずっと飲んできて、頃日(ちかごろ)ァ痛むことも下り物もほとんどなくなったッてわけヨ。そこでだ、このあっしが珍しく書見(しょけん[※6])をしたと御覧(ごろう)じろ。おとついのことヨ。外題(※7)ハ東京落語地図(※8)。そいつをひもといておりやして、疝気の虫ッて題のとこを読んでいたら、なんと出ッ喰わしたのサ。あっしのトおンなじ下ッ腹の痛い病にヨ。これよ、これ。これがあっしの病ヨ。ざまあみやがれッてのサ。てめえ、こんなとこに隠れていやがッて。
  ちょいと書き抜いて読ましょうか。「漢方で、大小腸・生殖器などの下腹部内臓が痛む病気。どうでえ、ぴったりぢャねへか。これを疝気ッて言ふッてわけサ。この病の名ァ落語なんかぢャよく聞きやすが、どんな病気なのかずっと分からず仕舞いで、迷信みてえな病ぢァねへかと思っていたンだが、こゝにこうして自分が患ッたからにァいまでもちゃんとある病気と知れたわけヨ。よかったねェ、ッてのも変だがネ。
  この本にも書いてあるが、疝気ッて言やァ思い出す詞がありやしょう。「疝気(せんき)は男の苦しむところ、悋気(りんき)は女のつつしむところ、ッてネ。と言ふことハだ、疝気を患ってやっといっちょまい(一丁前)の男ッてわけだ。こいつァ誉(ほまれ)ヨ。あっしも男達(おとこだて)の勇(いさみ)ィ名乗れるッてもんだゼ。鼻ァたけえ(高い)ゼ、ほんにヨ。
  ついでにいゝことおせえてやろうか。江戸の奉公人ハ怠けるときァ疝気ィ言い訳に使ったそうだ。いまでもお勤めのお方ァ会社行きたくねへときァ、疝気ッて言ふといゝゼ。跡(あと。後))ハどうなってもあっしァ知らねへけど。

附(つけた)り
(※1)元服。数え15歳で前髪を落して大人の仲間入りをすること。この儀式は武士が知られてるが、町人にもあり、商人では元服により丁稚から手代に昇格した。
(※2)小学手習所(てならひどころ)。読み書きを教えてくれる処。それを商都の大坂では寺子屋、江戸では「屋」の呼び方は商(あきない)で師匠に無礼として手習所と称したのに、洒落て小学を冠した。
(※3)へのこ。推して知るべし。
(※4)しょんべん道具を専門。泌尿器科。
(※5)補中益気湯(ほちゅうえっきとう)。内臓の下垂、アトニー、括約筋緊張低下などに薬効があるといわれる漢方薬。
(※6)書見(しょけん)。読書のこと。
(※7)外題。本の表紙に書かれた題名。本来は、表紙に貼った短冊形の紙に書いた題。表紙をめくった中に書かれた題は内題という。
(※8)東京落語地図。佐藤光房著、合本、朝日文庫(朝日新聞社刊)。

2008年2月13日 (水)

大江戸吉縁八百八町(おほゑどえにしのはっぴゃくやちょう)

 天保暦の師走も押し詰まった比(頃)のことヨ。いつものことで昼を軽く摂りに出たと思ひねえ。四ツ辻ィ渡ろうと一歩踏み出した途端に向ふから渡って来たとッつあんと目が合った。互いにアッと一声。そのまンま足ィ止まッちまッて、立ち往生ヨ。コウ、おめえハと声かけられて、オヤ懐かしい。
  このご仁とは妙な因縁。あっしが広目屋に奉公してた時分にときおり一緒に仕事した仲、我の強い野郎の多いあの稼業の中で欲のねゑお方だからのし上がろうなんて卑しい根性もッちァいず、心持ちよく組んで仕事のできる人でやして、歳はあちらがだいぶ兄(あに)さんだったが親しくさせてもらッておりやした。
  あっしァ四十代の半ばすぎに奉公人の足ィ洗い、一本立ちになってじきに江戸から八つのお山ゑ都落ち。それも束の間、大病の長患い。ようやく娑婆に戻ってまだ足元もおぼつかねゑときに、所帯を持った息子ンとこ訪ねてお江戸上(のぼ)り、ぶくろ(池袋)の駅の雑踏の中でばったりこのご仁に出会ッたことがありやした。向ふさんは階段から降りて来るところ、あっしァその前を突っ切るところ、一秒二秒早くても遅くても出会いハしねえ。それがまた、たま\/辻でひよっこり向ひ合せの出会い顔。縁(えにし)と言ふもんは不思議なもんヨ。
  大晦(おほつごもり)のいちンちめえ、浅草は弁天山ゑ抜ける辻に頃日(ちかごろ)できた揉み屋(※1)で療治を受け、柔らかくなった躰をもう一休みさせよふと、並木町(※2)ゑ足ィ延ばし藪(※3)ゑ上がり込み、ぬる燗一本蕎麦の実の練味噌で盃傾けておりやすト脇ィ立って勘定払う姐さんがゐる。なにげなく見上げたこっちの目と振り向いたそのお方の目がぱちッと合って、ともに見直す顔と顔。アラ、おまいさんはト思わず絶句。なんとあっしが二十年の余も世話になってきた編集のお方。こいつァびっくりいたしやした。こんなとこでお会いするなんてネ。ほんに世間は広いやふで狭いもの。こんなに人がどっさりゐ、八百八町とたとえられるほど広いこの大江戸、よくぞばったりお会いできたもの。これも縁のなせる技。縁の糸と言ひやすが、人と人とは見えねへ糸で結ばれてゐるンでやすねェ。
  出会うも切れるも縁の糸。つながる人とは何年あいだが空いても出会えやしょうし、縁の切れた人とは二度と出会えねへ。そうしたもんでございやしょう。
  久々にお江戸暮らしにけえった今年、三人目はどなたト縁の糸で手繰られるか。そいつが楽しみ、待ち遠しいねえ。

附(つけた)り
(※1)揉み屋。揉み療治を専門にする店。もみ処らく屋、浅草総本店東京都台東区浅草1-32-11  http://www.momidokoro-rakuya.com/index.html
(※2)並木町。現雷門二丁目。江戸時代、日除け地として雷門前に広小路が作られ、門向に茶屋が軒を並べ茶屋町となり、門へ正面から向かう道筋には松並木があったため、両側を並木町と称した。
(※3)藪。並木藪蕎麦。台東区雷門2-11-9

2008年2月10日 (日)

紐革麺艶気角帯(ひもかはうどんうはきのかくおび)(※1)

 正月明けて三日目(※2)(グレゴリオス暦[※3]2月9日)、昼めえからよんどころねへ用があり、飯田橋まで足ィのばしやした。あっしの左の腕(かいな)にァ鳥渡(ちょいと)した仕掛けがありやしてネ。そのお蔭で七日に三遍ッツ養生所行ッちァ活ゥ入れてもらって生きてるンだが、その仕掛けェそっちの玄人の外科の先生がゐるから其処行って鳥渡診てもらったがいゝゼってうちの養生所の赤髭(※4)が言ひやすんで、一筆書いてもらってそいつゥ懐に出たッてわけヨ。
  近くまで来て、ひょいと大道りの向ふミ(み[見])りァ、尾張屋(※5)の招牌(かんばん[※6])。コウ(※7)、こいつァ懐かし、けえりに寄って行くかト腹づもり。この大通りは目白通りと号(なづけ)てあるが、あっしが道案内にしてる文化八年の発板の大江戸絵図(※8)見りァ、こゝに道ァ通ッちァゐねへ。武家屋敷ばっかしヨ。いま乾(いぬゐ)から巽(たつみ)(※9)ゑ(※10)、堀に掛かってゐる船河原橋だって、あの比(頃)ハ東西に掛かっておりやしたものサ。鉄道の駅になってる辺(へん)が江戸の比ァお堀で神楽河岸。だからそこへ下ッて来る坂が神楽坂ッてわけだ。
  江戸のじでえ、医者と言へば漢方が本筋。いま言ふ内科を本道ト呼び、外科ァ昔もいまとおんなじ外科でやしたネ。その外科の先生の診察ァすぐに終わりやしたンで、終わり名古屋の尾張屋へト真ッつぐ洒落れやした。
  思へばありァかれこれ四十年もめえのこと。時分時(じぶんどき[※11])にこゝいらを通りかゝッたンだが、そんときひょいと目についてへえッた見世で紐革(ひもかは)を喰って、そのさっぱりした味がいまもって忘れられねェのヨ。こんど入りしなに招牌見りァきしめん尾張屋と書いてある。蕎麦屋がきしめんやってるンぢャなくて、こゝはきしめん一筋。蕎麦のお江戸できしめんで勝負張るたァいゝ根性していなさる。
  いまァきしめんの呼び名が通り相場だが、東京と名ァ変えられた明治の江戸で生まれたあっしのおッかさんなンぞは、ひもかはと呼んでおりやしたナ。ところがこの見世ぢァいろんな種物やってゐるよふだが、ぜんぶきしめんと呼んでゐる。ひもかはハどうしちまッたのかねェ。
  天保から嘉永六年にかけて江戸の森羅万象を気長に書き留めた守貞満稿(※12)に、こうあらァ。今江戸にてもひもかはと云平打うどんを尾の名古屋にてはきしめんと云也ッてネ。きしめんッてのは、元々は違ふもんのやふでネ。うどん粉を薄く延ばして、竹筒を押し当てゝ碁石ほどに丸く抜き、そいつゥ茹でてきな粉かけて喰うもんを言ったンで、だから碁子麺と書いたッて物の本で読んだこたァありやす。だからッてあっしがこの尾張屋さんにいちゃもんつけてるなんて思ッたら大間違い。詞の違ひハ処代りェあるもんだッてえ咄ヨ。
  さて、今様に小奇麗に造作した見世中で椅子に腰掛け、品書き広げりャ目白押しにならんだ碁子麺の数々。牡蠣だの蛤汁だの腹の鳴るような種物に目移りするが、そこは我慢の男の子。四十年も舌の覚えと連れ立って訪ねしひもかは手繰るなら、そこハやっぱりむかし馴染みのかけそばならぬ、きしめんの素がよかろうト只一言きしめんと書いた品を誂えやした。
  お待ちどうの声で卓に置かれた丼みりァ、蕎麦ならかけ、うどんなら素うどんのあたろうッてきしめんが、隠れるほどに種の盛り。油揚(あぶらげ)、青菜の色添え小松菜、繊切り昆ン布、花かつを。この削り節はァきしめんに欠かせぬ種。舌が忘れぬ味わいにァ紛うことなきかつをの旨味。こいつァ久しいご対面。まず一口汁(つゆ)啜り、あゝこの味ヨ懐かしい。居並ぶ種ェ掻き分けて、下から引き出す麺ハうどんの仲間とされてはゐるが、あの鬱陶しさはまるでなく、つる\/と滑るがごとく軽やかさ。巾はあっても厚みァなく、蕎麦を啜り込む軽快さ。手繰る味わい心地よさ。これが忘れなかったわけト合点がいきやした。続いて摘んだ油揚の甘味しみ込んだ深い味。上手い煮込みをするぢァねえかと、舌が喜び一口三口。小松菜もほろ苦さがよく活きていて、味の対比がたまらねへ。手繰って啜って丼平らげ、けふはいゝもんご馳(ち)になりやしたッて、払った価ハわずかの六百五十円。申しわけねへような安上がり。尾張屋さんヨゥ、末久しく頼ンやすゼ。
  ところで喜三二、おめえは江戸ッ子修業と言ッちァいなかったかいトいちゃもんつけられりァ仕方がねへ。知らざァ言ってしんぜやしょう。紐革、碁子麺、うどんの内と言ッちァゐるが、その手繰り具合や舌ざわり、そいつァ蕎麦を細帯とすりァ男達(おとこだて)の角帯気分。蕎麦の向ふ張ッての味わいに、水性(※13)喜三二のちょいと浮気の箸の先。合点承知のお目こぼしト御(おん)願い奉りやしょう。

附(つけた)り
(※1)碁子麺(きしめん)、棊子麺とも書く。江戸で言うひもかは(紐革)うどんのこと。新仮名遣いの表記は、ひもかわ。艶気=浮気のこと。黄表紙「江戸生艶気樺焼」(山東京伝)から借用。
(※2)正月明けて三日目。旧暦(太陰太陽暦)の日付。太陰太陽暦は中国の農暦を元に日本で長らく使われた暦。天保年間幕府によって最後の調整が行われ、天保暦とも呼ばれる。最も日本の四季に合った暦。
(※3)グレゴリオス暦。明治六(1873)年に明治政府により日本に取り入れられたヨーロッパの暦。1582年にローマ教皇グレゴリオス13世が制定した。
(※4)養生所の赤髭。養生所=幕府が享保七(1722)年に小石川薬園に併設した小石川養生所の略。現代の医院を洒落て呼んだ。赤髭=黒澤映画で三船敏郎が演じた医師。同じく現代の医師を洒落たもの。
(※5)尾張屋。きしめん尾張屋。東京都千代田区飯田橋4-8-11 電話03-3261-1073 http://www.gnet-chiyoda.ne.jp/shop_hp/owari.html
(※6)招牌(かんばん)。看板の意。下記(※10)の守貞満稿にこの表記あり。
(※7)コウ。現代の呼びかけの語「オイ」に当たる。コヲとも表記した。
(※8)文化八年の発板の大江戸絵図。「文化八年辛未年毎月 江戸日本橋南一丁目 須原屋茂兵儀版」江戸全図(1811年)。
(※9)乾(いぬゐ)から巽(たつみ)。乾=北西。巽=東南。
(※10)ゑ。現在~へと表記されるが、江戸時代には「ゑ」の字が用いられた。変体かなでは江が宛てられ、色紙の宛先である○○さんへは、○○さん江と書かれた。江戸は仮名表記では「ゑど」であり、江は「え」ではなく、ゑびす、ぬりゑなどと同じく「ゑ」で発音された。
(※11)時分時(じぶんどき)。食事どきのこと。
(※12)守貞満稿。喜田川守貞著「近世風俗志」。満は正しくは言偏。この文字がワープロソフトにないためか三水(さんずい)で代用されることが多い。喜田川守貞=文化六(1809)年大坂に生まれ、天保十一(1840)年三十一歳のとき江戸へ下り、深川に住す。天保八年以来嘉永六(1853)年まで見聞を記し、本書を残した。
(※13)水性。みずしょう。浮気性、の意。都々逸「二人水性浮気と浮気  ~まゝよ浮名の流し棹」

2008年2月 6日 (水)

銀座当世江戸巡(ぎんざいまやうゑどめぐり)

 江戸のかみいどこ(髪結床)ぢァ、客は自分の番がまわってくるまでの間にてめえの月代(さかやき[※1]) ィ水つけて揉んで伸びた髪ン毛柔らかくして待ったもんヨ。だがいまぢァ手間いらず。勘当で人別帖からはずされた道楽息子ぢァあるめへし、髻(たぶさ[※2])も髷(まげ[※3])もなしのざんばら髪。面(つら)ァ当たってもらやァ、へい一丁上がりの簡単手軽サ。銀座二丁目の馴染みの床をあばよト出て、ふらり行きァ大通り、きふは土曜日、ほこてん(歩行者天国)騒動。人さまが歩道から一段下りて、車風情の通り道を歩いてゐる乙(※4)な風景。三の四のト二丁行きァ尾張の殿さま尾張町(※5)。角にァお上の公儀辻番所(※6)、服部和光に越後屋三越、日産、三愛のビードロ筒(つゝ)ビル隣は鳩居堂。あふれでるハ香の薫りか墨の香か。
  尾張二丁目を通り抜け、竹川町(※7)。くのや(※8)の暖簾(のうれん)を鳥渡(ちょいと)くゞり、手拭(てぬぐひ)を漁(あさ)りァ、粋な藍染、関東縞(※9)に山道(※10)の二本、こいつァうれしい出会いぢァござんせんかい。姐さん包んでおくれト合わせて野口博士お一方に贋銀大一小一赤銭八めえ(枚)(※11)の代を払った刹那、鼻水一滴。花粉の野郎覚えてやがれ、懐紙取り出し姐さん失礼ト横向いて鼻ァかみァ、「散紙(ちりし)、お捨てしましょうト姐さんの優しい詞。今日びこんな気遣いに出会えるなんぞ、うれしいお店(たな)ぢァねえか。これが老舗と言ふもんヨ。天保八年から百七十一年も続いてきただけのこたァある。今出来の成り上がりぢァこふハいかねへヨ。お世話さんト見世ェ跡(後)にして、内山町(※12)を右に切れ、金春(こんぱる)通り(※13)ゑへえる。金春湯(※14)を横目で見、そのまゝ進みァけふのお目当て三河屋(※15)の招牌(かんばん[※16])。ずいと踏み込み、女将の笑みに邪魔するゼのあいさつ。若竹屋伝兵衛馥郁(ふくいく)元禄之酒(※17)琥珀の復刻酒を紙猪口に鳥渡(ちょいと)注いでもらッての試しの呑み。いまの酒ぢァ味わへねえ複雑妙味の奥行きに、こいつを買わずに帰られりョか。けふの狙いはこのめえ呑んだ江戸元禄の酒(※18)をもいッぺんのつもりだったが、この若竹屋の復刻元禄酒も外せねへ。今日ハこっちをいたゞきやしょう。味わいついでといッちァなんだが、隣に鎮座の煎酒(いりざけ[※19])も味わゝせておくんなトおねだりし、江戸じでえの調味料と言ふこれも味見をさせてもらやァ、前味後味の重ね味。梅干の塩気、かつを節の旨味、酒の甘味が重なりあって醸し出すその旨さの厚みがうれしくて、併せてもらって行きやしょう。代を払って、「こゝらに煎茶を飲ませる見世ァありやせんかいト訊ねりァ、松阪屋さんの裏の方に頃日(ちかごろ)出来たとか。ありがたふヨ、そんぢァそんな見当で行ってみやしょうヨと外へでる。
  元来た大通を海の方へ渡りァ銀座の七丁目、この丁目は安政時分もいまも同じヨ。最初の辻を見当つけて左手ゑ、曲がりァ萌葱色の幟に萌の文字、なんだか緑茶を思はせる色みぢャありやせんかい。ト訪ねてみりァ狙いはずっぽり大当り、着物屋萌(もえぎ)の二階に水茶屋がありやした。名も洒落て茶楽(ちゃらく[※20])トきたネ。絵ハ写楽、茶は茶楽ッて趣向と見たゼ。
 暖簾くぐって鳥渡おどろき。なんと机がありやせん。壁際に長い木箱を仕込んで床几に見立て、間々(あいだ\/)にビードロの板。そこが机代りの新趣向。時代劇見りァ蕎麦屋も居酒屋もどこへ行っても机があるが、ほんとの江戸の比(頃)はァ床几がお定まり。椅子も机もありャしねへ。床几に横座りになって、脇ィ置いた茶や蕎麦を喰ッたもの。そいつを今様に小奇麗に仕立てた趣向が憎いぢャねへか。
  品書きにァのっけ(※21)に煎茶とある。次が玉露でその向ふは抹茶。まず初名乗りとして、煎茶を誂えやしゅう。菓子は主菓子。練きりに黄身時雨れ、梅味の寒天。梅の酸味は大の字つきの好物。二つ返事で梅味をたのみ、そいつヲ食した頃合い計ったか、「第一煎でございますト薄手白磁の煎茶茶碗でうやうやしく運ばれた茶のいゝこと。こいつァ高直(※22)な茶葉を奢ッてるぢァござんせんかい、茶楽さんヨ。あんまり薫りがいゝンで、口先へ持ッていった茶がもったいなくて飲めやしねへ。二度三度、与度五度と鼻ッさァきで薫りを楽しんでやおら舌の上へ転がしたと思ひねへ。こくと薫りが舌の根にまとわりついて、口中極楽ヨ。呑ンぢャうのが惜しく、未練たらしく味わっていてもやがては茶碗は空(から)。つゞいて届く「二煎目でございます。こいつがまた\/味わい深く、煎茶の奥義の通り甘味がうれしい味の深さ。頃日(ちかごろ)こん         ないゝ思ひさせてもらってねへゼ。ありがたふヨ、茶楽さんヨ。
さて、ごッつォさんト見世の出しなに入れ違い、半袖姿の年増がお出で。「姐さん若いねェ。寒かァござ んせんかいト洒落を飛ばしャあ、あちらさんも江戸の町ッ子ヨ。仏頂面ハ見せやしねェ。にっこり笑って裸の腕ェぽんト叩いて見せたネ。赤の他人同士が袖すり合うも他生の縁、さらりと無駄口利けるがお江戸の町  。これで互いにその日いちンちいゝ気分。これが出来ねへうちァ江戸ッ子ハ名乗れやしゃせんゼ。
とん\/と階段を降りゝァそこは呉服の売場、見世の取ッ付きに黒の羽織が飾ってありやして、所々にあ しらッた茶で抜いた抜いた文様は鳥獣戯画。こいつァあっしが昔ッから好きな絵面(えづら)ヨ。訊きァ牛首に蝋纈(ろうけつ)で染めたもんとのこと。また黒の地がいゝ色ヨ。こいつァ相当あそばなけりァ着こなせねへ代物。修業が足りねへあっしが着たら、野太鼓にもなれやしねへ。洒落た浮世になってきやしたねェ。

附(つけた)り
(※1)月代(さかやき)。元服後の男子の髪形で、額から頭の上部を剃った箇所。青白く抜き上がっているので月の代わりの字を宛てたか。つきしろ。つきびたい。
(※2)髻(たぶさ)。髪を頭の上でまとめた所。もとどり。
(※3)髷(まげ)。髪を髻の箇所から後へ曲げ、さらに前へ曲げた部分。
(※4)乙。甲乙と少しレベルが落ちることを言ふ。
(※5)尾張町。尾張町一丁目の略。現銀座五丁目。尾張町は二丁目(現銀座六丁目)まであった。
(※6)公儀辻番所。交番を洒落た。公儀辻番所が江戸に最初に設置されたのは、寛永6年。
(※7)竹川町。現銀座六丁目。
(※8)くのや。久のや絲店。〒104-0061東京都中央区銀座6-9-8 TEL:03-3571-2546 FAX:03-3574-0278
(※9)関東縞。染柄の名称。幕末に流行。自然な筆の運びで線を引いたような藍染の縞柄。
(※10)山道。江戸時代に考案された模様。藍の地に白抜きで松葉を一面に散らした中に、斜めに藍染のぼかしをいれた様子が山道を思わせるところからこの名で呼ばれた。歌舞伎の与話情浮名横櫛でこうもり安がかぶっている手拭がこの柄のもの。
(※11)野口博士お一方に贋銀大一小一枚赤銭八めえ(枚)=1,680円
(※12)内山町。現銀座八丁目の一部、七丁目寄りの一角、金春通りへ入る両脇の町を言う。
(※13)金春(こんぱる)通り。能金春流の屋敷があったところからついた通り名。
(※14)金春湯。銀座に残る希少の湯屋。銭湯の呼び名は主に上方。江戸では湯屋。
(※15)三河屋。銀座・三河屋。創業元禄。〒194-0061 東京都中央区銀座8丁目8番18号 TEL03-3571-0236
FAX03-3571-0136
(※16)招牌(かんばん)。看板のこと。
(※17)江戸元禄の酒。小西家秘伝書「酒永代覚帖仕込み」を元に元禄の作り方で復刻した琥珀色の酒。720mℓ、アルコール度17度。日本酒度-35。
(※18)若竹屋伝兵衛馥郁(ふくいく)元禄之酒。米の搗き方、麹、配仕込み,すべて元禄の作り方で復刻した清酒。黄金色の中に、酒の五味(甘味・辛味・酸味・渋味・苦味)がすべてほどよくとけあった酒。720mℓ、アルコール度17度。日本酒度-35。
(※19)煎酒(いりざけ)。 日本酒に梅干、花な鼻がつを入れ、こと\/と煮込んだ江戸時代の調味料。
(※12)茶楽(ちゃらく)。GINZA茶楽。東京都中央区銀座7-10-5  TEL 03(5571)1917
(※21)のっけ。最初、の意。
(※22)高直。高嶺、の意。

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