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2007年9月29日 (土)

其の伍 いろはにほへとよめもせす

 その道の達人に林の美一(よしかず)先生ッて大人(たいじん)がおいでダ。なんの道かッて言やァあの道に決まっておりやすが、この大人、浮世絵の春画だけぢァなく、時代考証でも達(たつ)の人(じん)ッお方。元々活動写真会社にゐたッて経歴お持ちで、このご仁が著した時代風俗考証事典ハかの杉浦の日向子師匠も、お江戸の勉強にァ欠かせぬとご推薦の大著ヨ。
  その林大人が放った江戸艶本(えほん)ベストセラーッて外題の一書がありやす。その表紙がこいつァくやしいくれへうめえ墨跡ヨ。まぁ見てくんねへ。

  夫婦能(の)中(仲)夫の下多(た)繪尓(に)妻乃(の)さいしき(彩色)
  陰陽和合此(この)上なし 実尓(に)御艶本能(の)
  こゝ絽(ろ)尓(に)か奈(な)ひまいらせ候へハ(ば)一しを御ひやう者(ば)んも
 よろしくどんとうれ候半(なかば)と存じ上まいらせ候
  外題とても外尓(に)あんじも
  是奈(な)く候ワ(わ)多(た)くし可(が)願ひを
  其まゝ
  江戸艶本(ゑほん)ベストセラー
  とい多(た)し
  さし上まいらせ候
  よろしく御出板多(た)のミ(み)阿(あ)け(げ)
  まいらせ候
  めで多(た)くかしく

  新潮社殿
  林美一 内より

  能(の)だの尓(に)だの、絽(ろ)者(は)、はたまた奈(な)可(か)多(た)なんて変体仮名まじりだから、滅法界読みにくい。その上、まいらせだの候だのハ略字だから、いまの世のあっしらにァます\/読めねへ。だがそいつァ、江戸の比(頃)ァ鼻ッたらしの餓鬼でも、上方で言ふ寺子屋、江戸ぢァ尊重して手跡手習所ッて呼びやしたが、そこで習っておりやしたんで読み書きできた並の文ン字。あっしァ進んでいたはずの新制小学で読み書きおせへてもらいやしたが、とんと不調法でまるで読めねへ。あの勉強はなんだったンでしょうねェ。
  そんな手めえがどうして読めるンだとご不審がございましょうが、それにァ種がありやして、この本の墨跡の横にァ小さな活字で今の世の読みが振ってあるッて仕掛けサ。そいでもそのまんまぢァお分かりになりにくかろうト鳥渡(ちょいと)手ェ加えさせていただいてありやすンで、そこんとかァ勘弁しておくんなせへ。
  しかしこれだけの見事な筆跡、どなたさんの書ト本のどこを繰っても書き手のお名がござんせん。林の先生か、はたまた装釘家か。それとも浮世絵の職人さんの世界にァ玄人の文字書き手がおりやしたから、そういふお人のものか。いくら探しても、目次の辺りにも奥付の辺にもその名ァ書かれていねへ。
  謎のまんまじっくり本を読み進んでいきやしたら、終り間近でその謎がやっと解けやしたヨ。こいつァ林御大の推察でやすが、なんと墨跡の主ァ東海道中膝栗毛の書き手、十辺舎一九ぢァねへかと言ふのヨ。
 じつァこの書の文、歌麿の繪本笑上戸(わらいじょうご)の序文にこの筆跡の文があり、そいゥ失敬して表紙にもちいたッてからくりだったのサ。元の文は仕掛けが一も二もあって、麿内よりッて形で文(ふみ)を結んでゐて、歌麿の女房が版元宛に書いたッて体裁になってゐる。それを林美一内よりトもじったッてわけヨ。
  原本の刊年ハ享和三年ッてッから西洋暦で言やァ1803年。ところがそれより前の寛政二年、1790年だが、その年に没したおりよッて女が歌麿の女房として寺の過去帳に載ってゐる。その後いゝ女ができて女房になっていたのかどうか、分からねへッてのが、林御大の推理ヨ。そしてその比、歌麿ハ十辺舎一九とよくつるんで作をものにしておりやしそうで、そっから推して多分一九の手だろふと言ふト林先生は書いておいでだ。そう言やァ一九先生の熊手の花押の撥ねのするどさが、この書の筆の切っ先のするどさたァ一脈通じるやふな気ィあたしァいたしやすですヨ。「edoehon.jpg」をダウンロード

2007年9月27日 (木)

蒙御免月違月見(つきちがひつきみのわびじゃう)

  明治からこっち暦も西洋かぶれになっちまって、おとついは9月25ンちだと言ふ。昔馴染みの天保暦で言やァ葉月八月、十五ンちの夜だからその名もめでゝえ十五夜ッてことなんだが、月齢ぢァ十三夜ときた。
 十五夜ッて言やァ仲秋の名月、芋名月。が、そいつをあっしァ鈍智(どぢ)ィ踏みやしてネ。そん日の稿ぢァみともねへ勘違ひしちまって、詫びるゼ。
  それッてへのも、その十三夜を片月見の十三夜とトッ違えたッてお粗末サ。鳥渡(ちょいと)やゝッこしいンだが、仲秋の名月が十五夜ぢァなくて、月齢十三夜だってこと。こいつァ今年だけのことなんでござんしょうねェ。そこにトッ違えの穴があったッて仕掛けサ。
 そいぢァいつが満月かッてえバこの西洋暦のけふ27ンちが天保暦の十七ンちで満月ヨ。トなりァ、両方見ねへト片月見のしみったれになるッて花魁から念をおされる十三夜ハいつなんだッて言やァ、そりァ来月九月長月(ながつき)の十三ンち、それが栗名月ッて呼ぶ十三夜。西洋暦の10月23日。
  あっしら日本の国ァなんてやゝっこしくなっちまったンでやしょうねェ。西洋式と天保式の二枚舌。人の生き行く一里塚、月日のかずえ(数え)の要の暦でこんなことすッから、この浮世、上から下まで啌(うそ)ばっかり。本音建前まぜこぜで、なにが真(まこと)かわからねへ。浮気は遊女のするもの、客は真を尽くすもの。こんなからくり真(ま)に受けて、けふも騙され通ふ猪牙(ちょき)、揺れるは舟か真心か。まゝよ、あすび(遊び)の面白さ。けふはあっても明日はなし。一寸先は見えぬもの。おなじ見ぬなら、眼(まなこ)あけ、見る夢の面白さ。不夜の紅灯、月の影。十五十三二つの月を二階座敷から眺めて散財。どうせ人は一代、手ぶらで生まれて手ぶらで行く彼岸。傾く城なら潰れるまで、きっちりみとどけ遊びに狂って見るのも人の夢。

2007年9月26日 (水)

片月見

ゆんぺは十三夜の月見ヨ。トいってもあっしァそいつゥ買物に行く車の窓からちらりと眺めただけの、せっかち月見。こんなンぢァ花魁相手ェしちャくんねへナ。
江戸の比(頃)ハなんですッてネ。十五夜の月見ンときァ吉原ァ紋日(物日)ッてことで、客はてへそうな物入りだったそうでネ。たまらねへンで、やっぱり紋日の十三夜の月見ァ行けずにゐる。そう言ふのを片月見ッて言って、えらく嫌われたそうぢだと聞きやすゼ。
あっしァ、前の十五夜も月見した思ひがねへ。そしてきのふの十三夜もそんな具合ヨ。片月見どころか、両月見無しの大野暮サ。
きのふはさんざんな日でネ。八日続いた風邪がやっと引け、久し振りに馴染みの漢方の先生訪ね、鍼でも打ってもらおふかと行ったハいゝが、診察してもらってる間にふらついて息ィ苦しくなりやして、横になり、結局お医者にあっしの車で送ってもらふ始末ヨ。
ここんとこ飯ィつくるのも大儀、まいど間に合わせで済ましていたンが仇となり、低血糖を起こしたらしい。だらしのねへことで、なさけねへゼ。
それもあって夜ァ月見の元気もなしサ。
来年ハっていまから言やァ鬼が笑ふが、両月見してやるゾ。月の野郎、面ァ磨いて待ってろよ。

2007年9月21日 (金)

【加筆】大川午睡船遊山(おほかわあくびふなゆさん)

野暮用は手早く済ませ前川の、通い馴れたる二階の座敷、ほっと一息腰ィ下ろし、すかさず出される茶で人心地、首筋の汗ェ菊五郎(※1)で拭い、見まわしァ客もまばらな時分過ぎ(※2)。大窓の向ふにャ盛り上がるやふな大川の流れ。その上にァ天井知らずの青天井。ゆったり鷹揚なこの眺め。江戸のでかさが偲ばれるあいもかわらぬ雄大さ、気分が晴れるぢァござんせんかい。 サテけふハと広げて思案の品書きに、上からかずえりャ幾つ目か、下から見りァいっち最初のうな丼の、そのまたのっけに書かれたる最安値の一品を、藍絽見た目も涼しげな、お仕着せまとったの仲居の姐さんに、これと頼んで誂へる。丼に胆吸い、水菓子漬け物、都合四品(よしな)が現れるまでは、手持ち無沙汰の待ちぼうけ。 ぼんやり眺める大川の、流れに時も過ぎのとう、やがて置かれた卓の上、丼頼んだはずなのに、現れいでたる黒い重、向いの客はなにを誂へなすったか。塗りの丼で召しァがってござる。丼と頼むと重が来て、重と誂へると丼が来る仕掛け、まさかそんなこたァねへだろうが、この見世にァもう何度も見参の身なれど、そう言やァ一遍も丼で喰った覚えなし。どういふ仕掛けか腑に落ちねェ。 芳ばしい蒲焼に山椒粉、振って香りを引き立たせ、箸ィ突っ込みァふんわりと切れる蒲焼の柔らかさ。人間どうして蒲焼喰うときァ卑しくなるかせつねえゼ。脇目も振らず一心不乱の喰いッ振り。傍から見りァ三日もゝのを喰ってねへお菰(こも[※3])のやふな喰い方に、どうしてこうもなるのかねェ。罪だぜおめえ、蒲焼メ。 喰い終わって肝吸いで口ィ清め、漬けもん喰って脂を落し、水菓子でさっぱりしてやっと一息。あゝ旨かった。勝ち虫乱れ飛ぶ合財袋(※4)から銀延べの烟管引き出し、無粋が売りのその名もみっともねへ小粋の刻み(※5)、そいから小箱の燐寸(マッチ)出し、詰めて一服また二服。吐き出す煙(けむ)のふんわり流れるその向ふ、水面(みなも)を滑って上り来る、屋形船模した遊山船。白い障子が遠目にも、眩しいトきたぢァござんせんかい。あっしト船との間にァ、硝子(ガラス)のへだて、そいつゥ透かして粋な三味線(さみ)の音(ね)がもれ聴こへてくるやふぢァねへか。 ふット景色に靄ァかゝり、気がつきァ水面に幾艘もの屋根船、それぞれ船頭が竿あやつり、こぼれる雫が陽ィ受けて、義山(ギヤマン)の粒、夢見るやふな輝きヨ。下(しも)から波ィけたゝて屋根船の、間ぬってさかのぼる、あれハ吉原通いの猪牙(ちょき)の舟。細い船体左右に揺すり、櫓を押す船頭粋な形(なり)、細身仕立ての藍染股引き、〆る鉢巻き豆絞り、おッとよく見りァその下の、髪は月代すっきり髷天窓(あたま[※6])。こいつァ妙だゼ。昼の最中(さなか)に夢みたか。目ェこすってモ一度見ても、やっぱ船頭鯔背(いなせ)な髷姿。 手前近くの岸近く、屋根船にァ白髪まじりのぢゞいが独り。散切(ざんぎ)りなでつけ、真ッちろい(白い)髭、世間はゞからぬその姿、どっから見ても隠居の形。見たァ面だが、思ひだせねへ。盃片手にぼんやりと水面眺めて時ィつぶす。やおら躰ねじり、「船頭(せんど)さん、舟ェ上ィやっておくんなさい。ト跡(後)は独り言。「堀(※7)ィ上がって中ァくりこんで、新造(しんぞ)でも買って遊(あす)ぼうか。舟もいゝが、いちンち乗ってると、退屈でたいくつで、あッあッあゝァト大あくび。 ぢゞいメ、あくび指南と洒落やがった。てへげへにしねへナ。

附(つけた)り
(※1)菊五郎。江戸謎染めの柄。菊五郎格子縞。三代目尾上菊五郎が用いて世に広まった有名な柄。四本と五本の縞とで合わせて九本の格子を作り、その中にキと呂の字を交互に置いて、キ九五呂と読ませた。
(※2)時分過ぎ。時分どきを過ぎた、の意。時分時とは、食事どき、の意。この文章の場合は、昼飯時を表す。
(※3)お菰(こも)。貧しく衣類を持たず、酒樽の菰で体を覆ったところからの呼び名。乞食の別称。
(※4)勝ち虫乱れ飛ぶ合財袋。勝ち虫。とんぼの意。とんぼは後戻りしない虫であるところから、士(さむらい)に尊重され、江戸町人の中の勇(いさみ)にも喜ばれた。そのとんぼは手拭や合財袋の柄となり、今に伝えられている。合財袋、男が外出時に小物を入れる、手提げ袋。鹿革に漆で柄を染めた印伝(いんでん)などが多い。
(※5)無粋が売りのその名もみっともねへ小粋の刻み。「小粋」現在販売されている唯一の刻み煙草。刻みは煙管用煙草。小粋と自ら名乗ることは野暮との意識から、この表現をとった。粋、通とは、他者が評するものである。
(※6)天窓(あたま)。頭のこと。天保八年・娘太平記操早引二下「また老婆(ばゞあ)染(じ)みた御意見か、ヘン、それよりやァ御自分が天窓(あたま)の蠅(はひ)でも追ひなせえ」
(※7)堀。山谷堀のこと。通人の間での略語。新吉原へ舟で行く場合、大川(隅田川)を遡り、山谷堀で上がり、日本堤を通って言った。

2007年9月19日 (水)

伏魔殿にしゃがって

月曜の夜にふうじゃ(風邪)の天敵、美多民Cの点滴を医者ァちょろまかしてぶち込んでやったところ、音ェ上げたみてえできのふの朝の目覚め、すこぶる付きの上々ヨ。野郎、逃げけえったなト安気にかまえておりやしたら、真ッびる間の気温は九月の半ば過ぎたァ思えねへ暑さサ。途端にふうじゃの野郎、息ィ吹き返しやがッたんか、熱ァ出てくるハ普段からぼんやりの天窓(あたま。頭)ァ靄ァかゝったみてへになりやがるハで、さんざんヨ。
ふうじゃメ、あっしの躰ァ伏魔殿にしやがッて、どっかに隠れていやがったのヨ。てめえ、太へ野郎だ。どうするか見てロ。今夜また一発、天敵ぶちこんでやるかンな。

2007年9月16日 (日)

風魔大江戸八百八町八ヶ岳

 どぢな咄ヨ。ふうじゃに見入られちまッて風邪ェ引いちまったゼ。ゆんべから天窓(あたま。頭)いてへなッて思ってゐたら、今朝ァ熱ヨ。七度五分。そんなもんたへしたことぢァねへゼって言わねへでおくんな。あっしァ自慢ぢァねへが、熱にァ弱いンだ、弱いもんほかにもいろ\/あるが、そいつァいまァ言わねへ。
  だらしねへが、ドたま(頭)冷やして、寝てンのよ。
  どうだ、かわいそふだろう。そふ思ったら後生だから、観音のさまの方角がに手ェ合わしてあっしの快癒を祈願しておくんな。恩義に感じるゼ。

  軟弱自慢  喜の字

2007年9月14日 (金)

並木でどッきり

 前川で蒲焼で腹ァつくって意気やふやふと並木の藪の前通るト見世の戸が開けっ放しで、戸口にがらくたが山ンなってる。見世の椅子だの色の変わった段ボール箱だのだ。山のてっぺんにャなんとずん胴鍋が乗ってるぢァねへか。どきッとしたそんとき、見覚えのある主らしき、とッつぁんが出てきた。「見世やめるンですかい。親爺とっさに手を振って「いえいえ、けふは休みなんで。「そいつァしっちァおりやすが。「定休日なんで、片づけを。
あっしァ思わず胸ェなぜおろしたゼ。今日びのご時世、いゝもんから消えてゆくからネ。
ほんにけふは仰天ヨ。

2007年9月11日 (火)

江戸者、八ヶ岳で上方にデッ食わす

 おとついのことヨ。あっしが巣ゥくう町に大坂くんだりからはるばる野を越え山越えの長の道中で落語家と講談師が来たト思ひねえ。噺家ハ笑福亭たまト桂三風。講談師ァ旭堂南湖ッだそうで。あっしァ江戸もんだから、上方は不案内ヨ。ご無礼ながらこのご三方ァ初見参サ。たまッたって、猫やぢァねへヨ。今日びァ娘義太夫ならぬ娘噺家ッてのがたまにゐるから、その手合いかと思ったら意気のいゝわけえ男ヨ。どなたさまが師匠か知らねへが、なんだぜ。分かりにくい芸名つけるぢァねへか。いっそ、たま三郎ッてつけてやりァわけえ娘から大年増まで黄色い声張り上げて集まろうッてもんヨ。 町の商人(あきんど)の旦那衆三十九たりが束になって、点札(ぽいんとかーど)の会ッてのつくっておりやして、そこが呼んだンだッてへから豪勢ぢァありやせんかい。木戸賃ハなんと野口の博士さまお一方で結構ッてェ太ッ腹ァ見せておくんなすッたんで、そいぢァ鳥渡(ちょいと)ご馳(ち)になりに行きやしょうかと巣穴から這い出したッてェ訳サ。 あっしァこう言っちァなんだが、お江戸へ行ったり寄席で遊ばせてもらふときァいつも着流しヨ。それが江戸ッ子修業の身の礼儀だと思っておりやすんだが、なんせあっしが隠れ住んでるとこァ田舎ヨ。夏とは言へど片田舎ッてのハ壺坂霊現記だが、こちとらンとこハ自慢ぢァねへが本田舎ヨ。着流しで暮れ六ツ時分に歩いて見な。怪しいのがとほる、戸締りしろッて騒ぎになっちまふゼ。デ野暮ゥ承知で洋装と決めてのお出ましと合いなったッてわけサ。 噺の会は名題を、上方爆笑落語会。どうでえ、分かりやすいだろふ。笑わねへト叩き出すゾって気迫があふれていやしょう。笑え、この野郎、ざまァみやがれッてんだッて気合ヨ。席亭ハそういふことで町の旦那衆だが、建物としての席は駅前の公会堂ヨ、平たく言やァな。洒落た洋モクみてえな名ァついておりやすがネ。 前座ッて言っていゝのかわりいのか、そこンとこあっしにァ分かンねへが、のっけにお出ましになったんが、笑福亭たまヨ。この兄さんがまた、声がでけへ。あっしァ寄席ぢァなるたけ前の方に席ィとるやふにしてるもんで、余計でけへ。それが電気仕掛けで拡大してるンで割れるやふヨ。出鼻であっしァ浪花のド根性に負けちまったヨ。江戸ッ子ァ根性なんか持ち合わせてねへから、からきし駄目ヨ。 この兄イは変わり目ッて噺ィしてくれやしたが、枕でいゝこと言ったネ。見上げたヨ。これ聞かせてもらったゞけで、野口の旦那お一方ハ安い。 その枕によりァ、上方の落語ッてのハ大道芸がはなの始まりなんだッてネ。御用とお急ぎのお客さんの足ィ停めきァなんねへ。そいであのちッせへ拍子木、小拍子ッてそうだが、そいつと扇、これが扇子ぢァねへのよ、でかい音ォ出すためなんだろうね、扇をお使いサ。その二ツゥ両手に持って見台をバンバン叩くのヨ。その威勢がいゝッてッか、騒がしいッてッか、なんだこの騒ぎワってんで人が立ち止まるッて寸法サ。いっぺん立ち止まった客をこんだァ逃がしちァなんねへッてんで、矢継ぎ早に切れ目なくしゃべくって引きずり込むッて戦法らしいのサ。 そこいくッてへトお江戸の落語ァ文人先生たちが座敷で酒ェ酌み交わして余興に笑い話なんかやりだしたンが始まりッて聞きやすんで、そいだからでけえ声ァだせねへ。上方の落語がどんどん押して行くンだとすりァ、江戸の落語ハどっちかッて言やァ引きの芸ヨ。志ん生や圓生聴いておりやすトそう思ひやすよ、あっしァ。 さて、続いて高座に上がったンは桂三風、次が講談の旭堂南湖、とりが二度のお勤めでモいちど三風。はてな茶碗で〆やした。欲に転んだ油売りの哀れさを上手に出しやしたゼ。結局いゝ芸見せてもらいやした。ありがとヨ。

2007年9月 2日 (日)

其の弐 第弐回大江戸素見(おほゑどのぞき)

時は去る八月十八ンちの土曜日、処ハ第壱回とおんなじ南八ヶ岳は青麗亭(ブルーレイ)。肝入りは高の字さん。名題(※)『暑気払てぬぐひ尽くしに江戸の湯ゥ』
こないだは、その頭としててぬぐひ(手拭)をご披露いたしやしたんで、サテ本日ハお咄の第二部「江戸の湯ゥ トまいりやしょう。

エェ、いまァ公衆浴場のことォ風呂屋とも呼びやすが、ありァ上方の呼び方でやして、江戸の町ぢァ湯屋と書いて、ゆうやッて呼んでおりやした。たまにァ銭湯なんて呼び方もしたやふでやす。
そんだもんで、江戸ッ子は「湯ゥ行ッつくらア」とか、「おまいさん、湯ゥ行ッといで」なんて言っておりやした。
風呂のことが湯かといふとそふぢァねへンで。江戸のお人たちァそこンとこちゃんと使い分けてゐて、風呂とは蒸し風呂のこと、湯屋はお湯を湯船に張ってある処ッてことなんでネ。
風呂と湯屋、その両方が江戸にァあった証拠が町名に残っておりやすのヨ。江戸惣鹿子名所大全の巻の五に、赤坂の町名が載っておりやして、風呂や町、湯や町、ト二つの町名の書かれておりやす。やトハ屋のことで、江戸の比(頃)ハけっこう平仮名で表しておりやす。
そいでその湯銭だが、いくらだったかと言ひやすと、天保の比の文書(もんじょ)に、男女とも一人十文(ともん)、こどもハ八文だが、四文(しもんせん)銭の通用で、(客は)四文銭二枚八文、こどもは四文銭一枚。湯屋これをとがめずトある。鷹揚でやすよねェ。それでその天保に府命が出て、八文と決まり、童形六文、小児四文ト決まりやした。
 その比、かけやもりの蕎麦が十六文だったそうだから、湯銭は蕎麦代の半分だったことになりやす。そうは言っても具を加えた蕎麦は、二十四文、三十二文とけっこういゝ値がいたしやした。こいつァおかめとかしっぽくッて類でやしょうナ。

 こうして見ると湯屋はけっこうつらい商(あきない)のやふに見えやすが、吉原で言ふ紋日みてへなもんがあって、そんときァ客はみんな湯銭の他におひねりを出すのが慣習(ならい)でやした。その額は、江戸のじでへハあんまりものゝ直(ね。値)が変わらなかったンだが、そいでも幕末にァ高騰して文久二年には大人ひとり十二文に上がっておりやすが、そんときでおひねりは十六文でやした。
 このおひねりを出す日は、湯屋の番台に白木の三方が用意され、そこへ客は次々と置いて入る図が残っておりやす。この紋日は元旦から始まって、十二月十三日の煤払いまでに二十三回もある。湯屋の方では、五月四日と翌五日は菖蒲湯、六月は桃の葉、冬至は柚を輪切りにして柚湯をト客に応えやした。
 また、湯好きの客は、月決めで札を買い、日に何度も入りやした。起き抜け、昼、仕事終りの夕など、さっと汗を流すのが、きれい好きの江戸ッ子の嗜みでやしたネ。

江戸の町ァ年中火事に見舞われていたンで、火を使うことにはたいへん気ィ使っておりやした。そいで大層な大店でも、主(あるじ)もお内儀も町の湯屋へ行っておりやした。飯炊きのおさんどんや長屋の熊や八五郎と肩ァ並べて湯にへえっていたわけッてことでやす。
武家も下の、三十俵二人扶持取りの定町廻同心、捕り物時代劇で八丁堀の旦那なんて呼ばれてゐる下級武士の住いにァ据風呂(すえぶろ)はなく、湯屋へ行っておりやした。
 余談になりやすが、江戸にァ水風呂(すいぶろ)ッて詞(ことば)ァありやす。これはみず風呂のことぢァなくて、据風呂が訛ってすい風呂になり、文字まで水風呂になッちまったンでやすヨ。

そこで、その町方と呼ばれる南北両奉行所の定町廻同心のおもしれへ咄がありやす。それが江戸名物ッていわれる女湯の刀掛けでして。
 たとえ武家の妻女や娘御といえども腰に刀はさゝねへ。だから女湯に刀掛けは不用のはずなんだが、女湯にァ刀掛けがあったと言ふ。それは同心は日剃日髪(ひぞりひがみ)ッて言って、まいンち廻り髪結いを早朝に呼んで月代(さかやき)、顔を当らせ、髷を結わして身だしなみを調えて、朝空いてゐる女湯へ入ったからなんでネ。
湯屋の二階ッてのは、男の遊び場になっておりやして、湯上がりに別料金を払って、将棋、菓子や鮨(八文)、お茶(八文)でくつろいだンですな。しょちゅう行く得意客は、五節句に二百文ばかりまとめ払いをしておりやした。
 江戸ッてのはおおらかッてんですかね。その二階の床に格子をはめてあって、そっから下の女湯が堂々と覗ける仕掛けになっていたりしてネ。もちろん下の女客はそんなこと百も承知。お侠(きゃん)な処女(むすめ)も婀娜(あだ)な姐さんも、そんなことに怖気(おじけ)てちァ江戸の女はつとまんないヨって、へッ気(き)の平左(へいざ)でしたのサ。

湯屋の中ァどうなってたかと言ふト外から引き戸を開けてへえるトまず番台。そこで湯銭を払う。入った処が板の間。床に風呂敷を広げ、その上に着物を脱いで、棚や戸棚にしまう。その先が洗い場。洗い場と湯船との間にァ上から壁が下がってる。ここを石榴口(ざくろぐち)ト言ひやして、身をかゞめてへえると湯船がありやす。
なんで石榴口かッてかハいろんな説がありやすが、江戸の比の鏡ァ銅鏡なんで磨くのに石榴を使って研いだ。石榴口は屈んで入るンで、鏡入るト洒落、そいで石榴口だッて、なんか屁理屈みてへな説がありやすが、あっしァこりァきれいごと過ぎるやふに思ひやすゼ。男でも女でも、屈んでへえる人の後姿ァ明るい洗い場の方から見りァ石榴のやふにばっくり割れて、ネ。見えやしょう。そいでその名ァついたンぢァねへかとご推察申し上げてゐるでござんすヨ。

湯船のところにァ湯気をにがさねへやふに明かり採りァありやせん。だから中ァ真っ暗ヨ。で、冬なんぞ寒いときァ跡(後)からへえる客は、先客に「冷えもんでごぜえやすト挨拶するのが礼儀になっておりやしたネ。中にァ「御免なすッて枝が当りやすトふざけた挨拶する野郎もいたりしてネ。

男湯にだけあって女湯にァなかったンが、毛切り石。握りこぶしぐれへの軽重二ツの石ヨ。人間にァ上の毛(かみのけ)がありやすが、大人になるト下の毛(しものけ)が生えやしょう。この毛ェ刈り込むのに、この石を使いやすのサ。蛙の鳴くやふなそのケロケロ、ケロケロッて音が女湯の方にまで聞こえたそうでやすゼ。「オヤうちのしと(人)今夜ハかいト上さんは思ったりしてネ。
その女子衆(おなごし)さんハどうしたかッてへト玄人ハ線香の火で手入れをしたッて聞いておりやす。

江戸は男が滅多やたら多い町だったンで、初めァ混浴でやした。これを入込(いりごみ)と呼びやしたが、寛政以来は禁止。とは言へ立て込んだ江戸の町だから、そう\/湯屋を広げらんない。デなか\/守られなかッたンだが、幕末になるにしたがって、男女別湯になったそうでやす。
跡、なんの本にもかいちァありやせんが、江戸ッ子の熱湯好きの烏の行水、熱い湯にざぶッとへえってサッと出ていっちまうあのせっかちのやふな湯のへえり方。ありァ勇(いさみ)のかっこッてんでなく、ぬるい湯に長くつかると跡で汗ァ噴いてしょうがねへ。あの比ァみんな髷ェ結っておりやすんで、頭ン中に汗ェかくと始末がわりい。それであゝいふ湯のへえり方になったンぢァなへかと思っておりやすのヨ。
職人なんかに多かった勇肌の連中ハべたつく鬢(びん)つけ油を使わず、実正(ほんと)に水だけで調えた水髪(みずがみ)をざっくりと結った嬶束(かゝあたば)ねが時花(はや)ッておりやしたのも、鬢つけ油で汗をかくと始末に困ったからでやしょう。そんな風にあっしァ考えておりやすのサ。

本日ハこれまで。

サテ次回ハ第三部。江戸女の若衆好みト柳の下から何匹も泥鰌をひッぱり出すジャニーズ商法の咄ィいたしやしょうかね。また少しお待ちいたゞくことになりやしょうが、ご勘弁なすっておくんなせへ。

附(つけた)り
(※)名題。なだい。江戸の頃、本の表紙に書かれた題を外題(げだい)、めくって中に書かれた題を内題(ないだい)と呼んだ。この呼称は上方で、江戸では外題を名題と言った。歌舞伎などの芝居(しばや)小屋の外に掲げた題も外題と称した。

瓦版 第弍回大江戸素見(おほゑどのぞき)其の壱

Photo   八月は十八ンちの土曜、畏れも知らずに第弍回大江戸素見(おほゑどのぞき[※])を開きやした。お席ハ八ヶ岳南麓の水茶屋青麗亭(ブルーレイ)、肝入は前とおんなじ高の字さんでごぜえやす。
  今年ァ莫迦の一つ覚えでいつまでたっても暑いの一点張りなんで、名題を「暑気払てぬぐひ尽くしに江戸の湯ゥッ、ト名付け咄ィさせてもらいやした。おいでくだすったお客さんハ席めっいっぺえの二十二人さん。
 サテ咄のかわぎりハ、あっしの全財産持ち出しで、てぬぐひをご覧いたゞいたッて趣向でやしてネ。そいつを順に名前だけこゝでご披露いたしやしょう。
 まずハ十露盤玉(そろばんだま)、春夏用の藍染めと、秋冬用の茶染め。
 次ハ季節柄の夏用で、勝虫(かちむし)。こいつァとんぼ柄ッてことで。侍や勇(いさみ)の好きな柄でやすネェ。もちろん藍染。とんぼは跡(後)戻りしねへ虫なんで、そこが好かれたッてわけでネ。
  それから磯の吹き寄せ。藍の薄染めの中に抜きでさざえや巻貝が描いてありやす。
  そン次ァ鱗柄。こいつ藍染めだヨ。
  露草。これも涼しげな柄ヨ。朝露が草の葉の上で玉になっている図を染め抜くなんぞ、いゝ意匠だゼ。
  冬用にハ、薄紫の地に歌舞伎舞台で散らす三角の切り紙、あの雪を散らしたてぬぐひをご披露。こいつァあっしがでへすきないちめえヨ。
  そして、次は霰模様。藍のぼかし一面に霰を散らしてありやす柄で、こいつゥ使うとあっしァ国貞や英泉の婀娜な女が首ィすくめて絹の襟巻きしてるよふな図を想い描いちまうのサ。
  春用にァ、満開の桜の柄。こいつも藍染だが、それが利いていて春の青空の下で一面に咲き誇ってるよふで心が弾むいちめえヨ
  次ァ爪菖蒲柄。爪の形の横に図案化した菖蒲の絵。ご存じ、詰め勝負の洒落サ。菖蒲、勝負、てンで侍が好んだ柄だネ。江戸の奴(やっこ)は、爪菖蒲柄の文様を鹿革にいぶした皮羽織を着たッて言ふぢァござんせんかい。
  その次ァ藤の花。茶の地に白抜きで図案化した藤の花ァ一面に配してありやす。藤の花が咲くと、もう霜は降りねヘッて言ひやすから、縁起のいゝ柄ヨ。
  そン次ハ洒落を絵にしたてぬぐひと言ふことで、まず藍染の蕗の葉模様。こいつァ蕗と拭きを掛けた謎染めの洒落でやす。
  それから、洒落ッて言ふか風流ッてのか、そいつをまんま絵にした新内流し。三味を爪弾きながら暮六ツの町ィ流してあるく二人連れを影で描いておりやす。
  洒落本やその作家を題材にしたてぬぐひで、山東京伝の御大が書いた江戸生艶気樺焼(ゑどうまれうはきのかばやき)の莫迦息子、艶次郎があの団子ッぱなでのうれん(暖簾)の間から面ァ覗かしている図をいちめえご披露。続いてその御本尊、山東京伝が時花(はや)らしたッて言ふ朱羅宇の烟管を散らした柄のをご覧いたゞきやした。

  サテ謎染めとしてハまず役者てぬぐひ。菊五郎格子縞。三代目尾上菊五郎が用いて世に広まった有名な柄でいまさらあっしが言ふこともねへようなもんだが、四本と五本の縞とで合わせて九本の格子を作り、その中にキと呂の字を交互に置いて、キ九五呂と読ませやしたもんサ。
  そン次ァ芝翫(しかん)縞、芝翫つなぎとも呼びやすネ。四本の縞と箪笥の環を文様化しておりやすこいつも名高い柄ヨ。芝翫ハ俳名、三世中村歌右衛門のこと。上方の人気役者で、文化十一年(1814)江戸ハ中村座で、双蝶蝶曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)で放駒(はなれこま)長吉の衣装にこの柄使い時花らせたそうだから、ずんぶんと息のなげえ大した柄だゼ。
  とりィとってもらったハ謎染めの雄、斧琴菊(よきこときく)をご披露。続いて、鎌○ぬ(かまわぬ)柄。こいつァ奴の染め羽織が絵になって残っておりやすンでそいつもご覧いたゞきやした。奴は、大名奴、旗本奴が江戸の町で大手を振って歩くよふになり、それに連れて生まれた町奴にァかの有名な播随院長兵衛なんかもおりやしたねェ。なんで大名や旗本が奴の形(なり)に身を落して闊歩したかッてことハ、ちとなげえ咄になりやすんで、またの機会といふことで。

  サテすっかた長咄になっちまいやしたんで、江戸の湯ゥ屋のことは其の弐への続きといたしやしょう。  本日はこれまで。

附(つけた)り
[※]大江戸素見(おほゑどのぞき)。素見と書いて、普通はひやかしと読ませる。冷かしとは、吉原で格子の間から並んだ遊女を眺めるだけで帰ってくること。格子の間から覗くので、のぞきと題した。大江戸の文化をほんの一時ばかし、覗いていたゞこうという趣向である。

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