無料ブログはココログ

« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »

2007年7月30日 (月)

贋作良寛食(にてひなりりょふかんのゆうげ)

Photo_8  きのふの夕餉は、柄にもなく贅でごぜゑやしたゼ。向ふ付けの小鉢も奢り、松形に染め付けで竹と梅をあしらった馬廉(ばか)みてへにおめでゝえもんひっぱり出し、そこへ昆布締めのかわはぎの刺身ィ盛りつけ、留めにすだちィ添え、脇にァ口直しに繊切り茗荷の甘酢漬け。
  あっしンとこにァあるはずもねへかわはぎの昆布締めは頂戴もんヨ。自慢ぢァねへが、あっしの懐ぢァ手がでねへしろもんサ。そいつにお目にかゝれるなんてありがたふおざりィやすッてお礼もんだゼ。
  卓の真ン中にァ、今出来九谷の染め付けの大鉢にどっぷり水ゥ張り、枝豆を鋳こんだ木綿豆腐の奴(やっこ)ォ浮かべ、南鐐(なんりょう)の掬い手網。ポン酢を江戸幕末ハ五六八の三桝小鉢に入れ、も一つ手塩皿にァ昔造りの生醤油に生姜おろし。一丁の豆腐、ふた色の味わいで喰うふッて算段ヨ。枝豆豆腐も頂戴もの。矢切の利兵衛豆腐の拵えものサ。
 添える徳利ァご存ぢ赤絵瓢形、逢方(あいかた)はこいつも馴染み、祖父(ぢゞい)の形見の幕末時花(はやり)の猪口形、九谷の芙蓉文染め付け。
  飯ァ、江戸詣で躰に溜まった暑さァふっ飛ばすために、生姜繊切り放り込んで炊いた生姜飯。酒と薄口醤油と昆布を利かして芳ばしく炊き、盛る器は長年使い馴れた薩摩の白もん。絵付けは菊の籬(まがき)文。縁に金泥の線を廻してありやたが、たび\/の使いでとふに落ち、いまぢャ金のきの字も跡はなしサ。
  けふの料理であっしが力入れたンは、茗荷の甘酢漬け。千鳥酢に中ざらめを溶き、そこい(そこへ)糸のよふに細く切った茗荷を漬け込みやしたゼ。切り方ァ茗荷縦に半割りにし、それェ小口から細く細く刻みやして、口にあたらねへよふにしたッてことでサ。思へば料理らしい料理はこゝだけ。たゞ自慢ハなんだゼ。この根仕事を菜ッ切り包丁でやったことヨ。なんせ砥石がすり減っちまって、薄刃が研げねへ体たらくサ。その内なんとかしなくちァなんねへナ。
  こうして書き並べてみりァ主菜はみんな到来もん。これぢァ托鉢で喰ってた良寛さんサ。「喰うものハ風がもて来るおかずかな。お粗末。

2007年7月22日 (日)

【解説追記】を読んでおくれ

七月十二日の『いろはよほへとよめもせす その壱』に解説を追い書きいたしやした。吉原の仕来りが判る一文でやすヨ。読んどくれ。

2007年7月21日 (土)

蝉の浪

 家へ戻ってきやすと、玄関の踏み石の角に、蝉が休んでおりやすのサ。けふハ蒸しておりやすが、肌寒いンだか暑いンだかわからねへような陽気でネ。蝉さんも困っておいでの様子ヨ。
 そんなとこで昼寝してるト踏んづけられッぞってンで、山桜の幹へお移しいたしやした。素直な野郎でねェ。一声も発しねへのヨ。
 もしかすッと女蝉かもしんねへナ。蝉でも、女子衆(おなごし)にご縁があったのハめっけもんヨ。山隠やってるトそういふことゝハ無縁でやすからネ。

蝉も啼かずバ鵯(ひよどり)に捕られまいッてネ。あっしンとこの隣にァびっくりするくれへ広い赤松林があって、前は皐月の比(頃)ァそこで春蝉がうるせへくれへ鳴いたんだが、いまァさっぱりヨ。
いまの時期ァひぐらしだが、それもすっかりなりィひそめちまって、淋しいかぎりサ。全盛の比ァ津波のよふにひぐらしの啼き声が群れてうちの林を渡って行きやしてネ。ちょいと涼しくなるッてへトやつら飛べなくなるらしく、庭の飛び石の上ェ一歩\/気ィつけねへと蝉踏んづけちまうほどひっくりけえっておりやしんたゞがァ、いまァ見るかげもねへヨ。
  いろ\/じでへハ変わって行きやすねェ。

喜の字

追い書き
山桜の幹にへばりついてゐる蝉の写真を懐電話で撮ったンだが、こゝへ貼り付けよふとしたら出来ねへのヨ。jpg形式にしろなんて言ひやがってネ。見るとちゃんとそうなってゐるンだが、ブログさんのご機嫌がわりいらしい。デ皆さん方ハ残念ながら写真なしッてことで。マそんなわけだから、勘弁しな。

2007年7月19日 (木)

猫ぢャ猫ぢャ その弐

 端唄にありまさァな。 猫ぢャ猫ぢャとおっしゃいますが、猫が、猫が下駄はいて絞りゆかたで來るものかッてのが。 これ、あれだそうで。お妾さんとこに急に旦那がお越しで、慌てゝ情夫(いろ)を裏から逃がす、そのどたばたを猫と言って誤魔化すとこを謡ったもんだそうでやすヨ。 なんですッてネ。意地とハリで売った辰巳芸者ハ囲われる身になっても、旦那一人に間夫(まぶ)一人ッて言ってそのくれへ当り前だッて気構えだったそうでね。その度量がなかったら、旦那になんかになるなッてネ。お江戸の本読んでおりやすト月三両の三月縛りなんてのことが書いてありやす。三月限りのお囲いさんッてことだ。囲う方も囲われ方もさば\/しておりやすねェ。べたつかないのがいゝヤ。そこが江戸の気風のよふだネ。 このまえ、猫の咄ィ書いてゝ気づいたンだが、三味線(さみせん)のこと、猫ッて言ふンだそうで。猫の皮張ってあるからネ。そいで、それを弾く芸者さんのことも猫ッてそうでやすヨ。いまのことかどうかは判らねへ。とにかくお江戸の比(頃)ハそう言ったのヨ。 でネ。昔、行火(あんか)ッてのありやしたでしょう。炬燵のちいせへのよふなもんだがネ。土の焼きもんで、四角い小箱のようになってゐて、上は丸くなってゐて、四方に穴ァ開いてゐる。そン中に炭火を入れて、上に布団かけてあッたまる、冬の道具だ。暑くてしょうのねへ真夏に言ふ咄ぢァねへけど、ついでだから聞いておくんな。 それヲ猫とも言ふのヨ。お江戸ハ浅草の今戸で焼いていたそうでネ。あっしのこども時分にァ、よく使いやしたヨ。今戸焼ッてえバ狐(※1)かと思ってたら、猫もあったッてわけだ。蚊遣の豚も焼いてたそうだから、今戸はけっこう毛もの作ってたッてことだ。 どこまで咄たかね、猫だネ。 そう言やァ、猫抱いて寝るッて詞(ことば)ァありやしょう。あっしァずっとそれハ本もんの猫か、行火のことだとばッかし思っておりやしたのサ。いゝ歳こいて初な咄ヨ。 猫ッて芸者さんのことだとサ。やっと世間が判ってきやしたよ、この歳ィして。ちと遅かったねェ。 (※1)狐。落語に「今戸の狐」がある。売れない噺家が今戸焼の狐の彩色で糊口をしのぐ噺。

2007年7月17日 (火)

猫ぢャ猫ぢャとおっしゃいますが

Photo_7  前に猫ゥ二匹飼っておりやしたのヨ。どなたさんでもそうでやしょうが、飼主ッてのハ親馬廉(ばか)と一緒。みンなてめえンちの猫だの犬がこの世でいっち可愛いト思っていやがる。あっしァそんな盆暗(ぼんくら[※])ぢァねへ。ほんにうちの猫ちゃんハ二匹とも天窓(あたま。頭)のいゝお利口ちゃんでやしたゼ。ありァどうみても、人に生まれるとこヲ鳥渡(ちょいと)神さんの手違いで猫になってあっしンとこに来たよふな賢さヨ。生きてりァ見せてへくらいだゼ。
  だが、切ねへこと身罷(みまか)ッちまったンでしょうがねへ。毎朝起き抜けのいの一番にお線香を上げ、ゆっくり待ってゝおくんなせへヨとお頼みしておりやすのサ。猫のめへにァ犬を二匹飼いやしたが、こいつらも賢いこと\/。まかり間違って人に生まれていりァ赤門首席だヨ。ゐぬに生まれたのがちょいとした不運サ。その代わり、人の世の苦しみ味わゝずにすんだゞけ、果報だったかもしれねへナ。
  デその犬二匹と猫二匹の俗名とご遺影に向かって、三途の川の向う岸で待ってゝおくれトお頼みしておりやすのサ。これで来世は磐石よ。ざまァみやがれッてンだ。
  そんでネ、最後の猫が死んだ跡(後)、あんまり悲嘆にくれてたら、すぐに次を飼った方がいゝよッなんてお節介言ふ間抜けがゐやがるのヨ。とんでもねへッて野郎だゼ。そいぢァ死んだ猫に操が立たねへだろうが。そうでやしょう。
  だから、あっしァその後は猫絶ちヨ。子猫一匹飼やァしねへヨ。その代わりッちァなんだが、うちにァ猫ッ可愛がりしてる猫が三ツおりやすのサ。その一つが、猫の陶枕。こいつァ夏のいま時分、昼寝にァもってこいッてしろもンだゼ。ひんやり天窓が冷えて、心地のよさァ絶品ヨ。
  つぎァ黒猫の文鎮。ちびの癖に重みがあって、本のこの頁抑えておけヨって言ひつけりァいちンちでも二日でもそっからびくとも動こふとしねへしっかり者ヨ。
  三ツ目は、長火鉢の猫板。紫檀と花梨の造りで、こいつも毎朝空吹きで磨きをかけておりやすヨ。本猫のゐた時分にァこの長火鉢ァとうにうちにありやしたが、この猫板にァ上がりやせんでしたゼ。猫ながら、主がでへじにしてる長火鉢に爪跡つけちァ申しわけがねへッて分別があったンでやしょうねェ、あいつにァ。 
  ナ、そこんとこ考えたゞけでも、うちの猫ちゃんがどんだけお利口か分かったゞろう。どうだ、驚いたか。

附(つけた)り
[※]盆暗。博打の賭場で金を賭ける場を盆(ぼん)と呼ぶ。丁半の賭金がかたよりなく揃ったことを瞬時に目測できる者を「盆が明るい」と言う。その暗算ができない者を「盆が暗い」と言い、略して「盆暗」と呼ぶ。

2007年7月15日 (日)

暑気払華二杯酢(しょきはらいはなのにはいす)

 近比(頃)、梅雨時に台風が来るのが時花(はやり)みてへになっておりやすねェ。乙な天気ヨ。まいンち湿っぽくていけねへ。江戸の昔なら、こんなときァ猫のひてへほどの庭に盥(たらい)を出して、行水でさっぱりしやすんだが、近比ァ懐も時化(しけ)ておりやして、その盥一つ買えねへ貧の字ヨ。
  なんか暑気払いでもしねへト躰から黴(かび)ィ湧くぜッてんで、ネタァ仕入れにいきやすのサ。
  いまの時分は野も山も緑の盛りヨ。その緑一辺倒の中に、炎(ほむら)立つように咲いているンが、このノカンゾウ。この花をちょいと摘んで帰り、さっと茹でておいて包丁で粗く切り、二杯酢でいただく。そいつを肴に冷や酒酌めば、取りあえずけふの浮世は吉(よし)としょうッて気分になれやすゼ。しゃき\/とした歯触りがなんとも応えられねえヨ
  器はこの鮮やかな橙(だい\/)色活かすように、染め付けか織部釉が似合いだネ。
  まァこんなことでその日\/やり過ごし、一生終わるッてのもいゝか、いゝッてことにしておきやしょうよネ。Photo_6

いろはにほへとよめもせす その弐

Photo_5  馴染みの古本屋がお江戸をはるかはなれた北九州にありやしてネ、長崎遊学ぢァねへけれど、そっからあっしに不足してる学問を補うこんな書籍がへえりやしたヨとお知らせくださる仕組みになっておりやすのサ。ぶっちゃけた咄、あっしの江戸学問ハそッから仕入れた書物に頼ることがけっこう多ございやしてネ。変なもんだゼ。
 ついこないだモお知らせがあって、品目の中になんと傾城買四十八手(けいせいがいしじゅうはって)がありやすのサ。それも、原装複製を謳っておりやす。今様活字本ぢァねへゼ。復刻ヨ。そのうへ元の装釘だってンだ。こいつァ掘り出しもんヨ。さっそく手配をご依頼いたしやしたよ。
 届いたもん見て、おどろきヨ。写真の通りだヨ。函入りで、中身ァちゃんと昔の筆文字を版木に彫ってある。たッて実正(ほんと)ハ複写しての製版なんだろうけどネ。部数は千五百部しか刷ってゐねへ。あっしの手元に来たのは一三八二番と朱印が押してある。価は、新刊ンときァ参萬八千兩、あっしが払ったンは参千兩。ずいぶんとお安くしていたゞけたッてわけだ。貧乏人ハ得ヨ。なんてッたって、神さんがついておいでだからネ。貧乏神ッて神が。
 さて、開いて見て思はず手ェ震えやしたゼ。なんてッたって、さっき言った通り筆文字なんだから。お江戸ンときのまんまッてことヨ。著ハ山東京伝、奥付繰りァ書林江戸通油町蔦屋重三郎ッて書いてありやすのサ。あの蔦重ヨ。
 恐る\/読みましたゼ。ところがこいつガ読めた代もんぢァねへ。まして取っかゝりハ序だからいっそうヨ。とかくあのころの物書ハ漢文の素養を誇りやすからネ。序文に凝るわけヨ。当て字もひとひねりふたひねりしてゐやがるから、読む方も一筋縄ぢァいかねへヨ。
 そんなとこでけつまづいてちャ旅ハはかどんねへンで、取りあえず拾い読みで飛ばして、いざ本文へへえりやしたト思ってくんねへ。
 初ッぱなが、志津保里と志し多手だ。こいつァ、しっぽりとした手ッて読んでやっておくれ。マ万事こんな具合に変体仮名どっさり混ぜて書いてあるッてことヨ。客はまだ初(うぶ)な息子、相方ハまだ十六のつ(突)き出し(※)の女郎。どっちも初々しいッてことサ。この二人のやりとりが、ほとんど咄だけで書いてある。明治からの、文学なんて舶来の招牌(かんばん。看板)掲げた偉そうなもんとハ大違い、地(ぢ)の文なんて説明する手抜きァしてありやせんのサ。
  なんとかゝんとかたど\/しいンだが、読んでいくうちに、なんだかこの咄ィどっかで読んだぜッて心持ちになりやしたヨ。そいで、本棚探ッたらありやしたのサ、活字本ガ。
  そいつァ版元ァ岩波さんヨ。日本古典文學体系の黄表紙洒落本集。そんなかにちゃんとござったッてわけだ。だが、がっかりするのハまだはえへ。比べて見てあッと思ひやしたゼ。活字本は変体仮名をご丁寧にみんな平仮名にしちまッてゐるのサ。だからそれ読んで、江戸の文体判りやしたなんて思ったら大間違い。変体仮名交じりで書かなけりァ、お江戸の文(ぶん)にならねへッてことをはっきり教えられやしたネ。

附(つけた)り

(※)突出(つきだし)。禿(かむろ)からではなく、素人女からいきなり女郎になった者をこう呼ぶ。遊里言葉。初めて女郎として客を取る女。新子(しんこ)とも呼ぶ。禿とは花魁に突き従う女児で、そこから将来花魁を育て上げる。

2007年7月14日 (土)

ふくべ その參 銀彩見返り鹿瓢徳利 染付螺子手盃

Photo_3  注ぐときに、とく\/と柔らかい音で啼くのハこれも同じ瓢形の徳利のよさサ。胴のくびれを空気がぽこ\/と通り、そいつが音になるンでやしょうねェ。それがたまらず、もういっぺえッてことになっちまうのサ。
 銀で描いてあるンは、鹿だけぢァねへ。雉もおりやしてネ。狩の図ッてことなんでやしょうねェ。この徳利、じつァ対なんで。相方がありやす。そっちァ、確か金彩でしたゼ。
 恥ずかしい咄だが、わけへ時分に勤め人の真似ッこしておりやしてネ、その後社長におなりなすったお方トひねもんのあっしが妙に気が合いやして、湘南のお宅まで遊びに押しかけやしたのサ。そしたらこの徳利と盃で、酒を呑ませていたゞきやして、なんの腹もなくこいつァいゝ徳利と盃だトいっぺえ注がれるたんびに、あっしァどうも誉めちぎっていたようなんで。サテそいぢァおいとまッてことで、玄関で天窓(あたま。頭)下げようトしたら、コウ鳥渡(ちょいと)待ちなッてんで新聞紙にぐる\/包んでこの二つをくだすッたってわけサ。えらいもんもらっちゃったゼ。それからもう廿年ぐれへは経つがでへじにしておりやすヨ。飽きもこなきァ鬱陶しくなることもねへ、さっぱりとしていながら、格があるッてェしろもんサ。
 盃ァ透かすと灯が通るほど薄い磁器で、たぶん京焼きだろう。あんまり薄いンで縁が少し欠けておりやしたから、先に書いた祖父さんの盃と一緒に金繕を頼んだンだが、磁器はほんとうは出来ねへものだそうでネ。その内に適当に誤魔化してくれるとこ、息子の嫁が見つけてきてくれて、そこで繕ってもらいやしたのサ。
 親指と人差指で差し渡しの縁を持ち、口元へ酒を運ぶときなんぞはペシャっと割れるンぢャねえかと按じるぐれへ薄い造りヨ。だから、唇への当りもほんにいゝ。酒の味わいが二段も三段もあがるッてもんサ。

2007年7月12日 (木)

いろはにほへとよめもせす その壱【解説追記】

Photo_2  葛飾應為(かつしか おうい)ッてお人の艶本の見開きが、画面いっぺえに出てゐる本が、あっしンちに転がっておりやすのさ。本だから転がるッてのハへんだが、マァそこらに置いてあるッて思ってくんねへ。
 このお人は、女絵師でネ。あの北斎に娘がゐたッてのハきいたことありやしょう。それがこのお人サ。本名だかなんだかハお栄ッて言ひやすそうでネ。おハ御だから、実正(ほんと)は栄一文字でやしょう。
 このお方、をんな(女)だてらに春画を物にしていてネ。をんなだてらッてのも変か。あのこたァ男と女の両方がゐねへぢァ出来ねえことだから、どっちが描いてもそれハそれでいゝンだが。それを写した今出来の本、新潮社ッて神楽坂にある蔦重[※1]が出したとんぼの本でやすのサ。その一冊に、浮世絵の極み春画ッて題で、あの林美一[※2]の旦那が書いてござるわけサ。
  デその見開きだがネ。そこに載っているのは、艶本『繪本つひの雛形』の部分ヨ。こいつにァ科白だのがへえっていやがる。たかゞッて言ッちァ應為の姐さんト世の通人に申しわけねへが、どうせ小難しいこと書いてあるわけぢァねへニきまってゐらァな。
  ところが、そのてえしたこともねへ文が満足に読めねへのヨ。エヽ、情けねへと思ひやしょう。江戸のその比(頃)ァ誰だって読めたもんだゼ。それがお上が定めた小学校でいろは習ったこちとらにァ読めねへ。これでいゝンかい、文科のおとゞ(大臣)さんヨ。トてめえの不精進棚に上げ、人さまのせいにしちャあいけねへナ。
  そいでサ。文ン字にうといあっしも好きと道連れで読めるかぎり読んで見たッてわけヨ。変体仮名やら崩し字だらけで手におえねへが、どうやらこうやら、こんなとこかなッてとこまで漕ぎつけやしたんで、跡(後)ハ○ン中埋めてくんねへ。○ッたって、伏せ字ぢァねへヨ。あっしが読めねへだけサ。分かったら、助けると思って教えておくんな。

  板かしら[※3]と
  いふもん多(だ)
     から
  末(ま)んと
      くめんハ
    よし多(だ)らう
「板がしら可(か)
     い遠(を[※4])かしら可(か)
              志(し)ら祢(ね)へ可(が)
  きゃく多(だ)ねが
              目(め)里(さと)いから
    い可(か)祢(ね)へ見(み)奈(な)
「奈(な)る保(ほ)どおめへハ
         む寿(す)めをむ古(ご)く
   使(つか)うふとめへて
                     志(し)多(た)つ爾([※5]に)
         あ多(た)つ多(た)
   口乃(の)やうに
   ○つ者(ぱ)せへ
             多(だ)
     古(こ)多(た)ア
  「そうさ日可(が)奈(な)
      いち爾(に)ち
        うへし多(た)乃(の)
    口のそうぢ爾(に)
            者(ば)かり
      かゝつて
            ゐらァ奈(な)
    天(て)者(は)やく三両(倆)に
                  奈(な)りてへ
  多(た)つ多(た)でへしが祢(ね)乃(の)
    かり可(が)四両(兩)や春(す)い女多(だ)
        そう多(だ)ん

  分かったところもありやしょうが、あっしにァ当て推量だらけの分かンねへとこだらけヨ。皆さん方のお知恵を拝借してへとこサ。
  しかしなんだねェ。こんなもんが読めねへッてのも、情けねへ咄ヨ、ほんにサ。色は匂ふッてのにネ。

附(つけた)り
[※1]蔦重。蔦屋重三郎。江戸で名高い版元。今に言う出版社。洒落て詠んだ。
[※2]林美一。江戸文芸研究家。時代考証、浮世絵の中でも春画の研究で知られる。大正11年生。
[※3]板かしら。板頭。板もと、とも。主に深川詞。吉原のお職に相当する。その月に最高の玉代を上げた芸妓娼妓。
[※4]い遠(を)。魚(いを、いほ)のこと。
[※5]爾(に)。原本は略字だが、電算文字に該当がないため、この異体字を用いた。

【解説追記】
 艶本の文の終りの方に、

天(て)者(は)やく三倆(両)に
                  奈(な)りてへ

 との一文があるが、これは三度目に上がった客、いわゆる馴染みになるとその夜、敵方(あいかた)の遊女に床花(とこばな)と呼ぶ心付けを出すしきたりがあった。花魁の位になると、その床花が三両であった模様。それを言った科白であろう。  

2007年7月 8日 (日)

ふくべ その弐 赤絵瓢徳利 九谷芙蓉手染付盃

Photo_1

 いまァ世の中変はッちまったからなくなったが、銀座の一丁目の表通りに陶器屋があった。もふ鳥渡(ちょっと)北へ寄りァ、京橋。ゑど(江戸)ン比(頃)ハ銀座とも新両替町とも言った一丁目でネ、そこにその見世ァありやしたネ、あっしのうろ覚えでやすが、屋号は確か、小柳ッとかッてネ。
 そこで見つけたンがこの赤絵の徳利でさァ。ご覧の通りの瓢形。この見世ァ場所柄、銀座界隈の路地や新道(しんみち)辺りの小料理屋あたり目当ての品揃ひだったンぢァねえですかい。鳥渡小粋な器が多ござんしたゼ。そふ言やァ裏にァ丸た新道(じんみち)なんかござんして、小見世が夜になるト赤提灯なんぞ灯しておもやしたものねェ
  ご存じのとほり、料理屋呑み屋ハ徳利の数でお足取りやすんでネ。三合もへえるよふなお預け徳利ァ置きやせん。デこの赤絵の瓢もえらく小粒もんでやすヨ。五、六勺も入れりァもう一杯でネ。客は呑み足りなくッて、女将もう一本つけてくんなッてことになって、商売になるッてェ十露盤(そろばん)ヨ。
  あっしァ呑ン兵衛ぢァねへから、このくれえが丁度いゝ。飯の前にも寝酒にも、心安く使える徳利ッてことで、モウかれこれ廿年の余も使っておりやすンで。価(あたい)ハ安かったねェ。いまもって忘れねェよ。贋南鐐(なんりょう)たったの七めえヨ。七百円サ。こんないゝ買いもんハあとにも先にもしたこたァねへゼ、ほんと。

  モ一つ、こいつゥ離せねへわけがありやしてネ。酒ェ注ぐときに、とく\/ッていゝ音(ね)で泣きやすのサ。こりァ鳴くッて文ン字ぢャ感じでねへのよ、やっぱり泣いてくれるのヨ。それがたまらねへのサ。
  デ、その音聴きたさに、また夕飯ンときにいっぺえッてなる毎夜の繰り返しサ。
  この徳利のお相手は、脇ィ並べた染付(そめつけ)。ひっくりへえすと高台ン中に九谷ッてへえっておりやす。青九谷ッてのがあるそうだが、こいつァそうなんかねェ。あっしァよく分かンねへが。
 あっしの祖父(じい)さんの遺品でネ。芙蓉手ッてあっしァ勝手に呼んでおりやすが、内側の底に真上から見た芙蓉の花が咲いておりやす。あっしの手へ渡ってきたときにァモウ縁がちょいと欠けておりやしてネ。幸い上野の美術学校の保存技術課ッてとこの先生に伝(つて)ができやしたもんで、金繕(きんつくろい)してもらって使っておりやしだが、なんだか運のわりい盃でねェ。落して割られ、また金繕して戻ってくるッてへトなんかの恨みかまた落とされて割れやしてネ。なんだかんだで三、四(し)遍繕いやしたヨ。最後ンときァ仕上がって戻って来た姿見たら、切られ与佐みてへであんまり痛ましくッてしばらく手にとれやせんでしたゼ。そいでも祖父さんの形見ヨ。使ってやんなきャ可哀相でならねへ。
  それにこいつ、只もんぢァござんせんゼ。守貞満稿読んでおりやすト幕末に流行った盃の形が絵に書いてある。そっくりヨ。大きさがこいつァ、その一回りちいさへだけ。
  祖父さんは幕末だか明治のしょっぱなの生まれだからネ。いまどき、この形の盃、あっしァ一遍も他で見たことねへのサ。冥土で祖父さんに追いついたら、孫のあっしが大切に使わせてもらいやしたッて伝えなくッちァいけねへ。そうしたいわく背負った盃サ。

2007年7月 7日 (土)

ふくべ その壱 割瓢(わりふくべ)

Photo

 ちょいと前のことになるが、あるお方が上野の博物館へお出でヨ。そこで蒔絵ほどこした贅沢な瓢箪をご覧になったそうサ。あそこぢァ写真はご法度だから、撮ッちァこれなかったが、跡(後)で他からお手にお入れになったとかで、あっしも横からちょいと覗かせいたゞきやしたッてわけヨ。
  そいで思ひ出したンが、割り瓢サ。こいつァ、秦秀雄ッて骨董三昧のとッつァんがおやりしてネ。もう亡くなったお方だがネ。このお人は、あの白洲正子と手に入れた骨董の見せびらかしッこするような間柄でサ、井伏鱒二が珍品堂主人ッて小説書きやしたが、その主人公だッてそん比(頃)ァもっぱらの噂でしたヨ。なか\/の目利きでネ。映画にもなりやして、フランキー堺がその役やりやしたが、あっしァ秦ッ旦那にァ会ったことも見たこともねへが、そっくりだッて感心しやしたねェ。フランキーはいゝ役者だったねェ。あゝいう人はもう出ねへヨ。居残り佐平次役の幕末太陽伝ッて映画も、いまでも目の裏に焼きついておりやすヨ。たしか昭和の御代の三十五年の封切りだったて言ふから、何年めへかね、あっしァ盆暗(ぼんくら[※])で空で十露盤(そろばん)はじけねへから分からねへけどネ。
  咄ァ横丁ばいりしちまって、なんの咄だったかね。そう\/秦の大将がお書きになった本のことヨ。そいつァ骨董玉手箱ッてンでネ。装釘もいゝし写真もいゝヨ。表紙の題名の筆、中の扉頁の筆文字も、みんな大将の手だったてンだが、こいつも味があるのヨ。近比時花(はやり)の下手うまぢァねへゼ。うま\/サ。骨董やる人ァ違うネ。

  デ割り瓢の咄サ。こんな書き出しで始まるンだ。「割り瓢は古瓢千個に一個どころじない。一万に一つも見つかるまい。ッてネ。桃山時代のもんだッて言ふのサ。あの比は瓢箪を水に漬けて中を腐らして種ェをとることを知らなかったンぢァねへかとネ。そいで、縦に真半分に割って種をだし、もっいっぺんくっつけて漆の真塗りで仕上げたそうなのサ。
 こいつに酒入れやすと注ぐときィいゝ音(ね)で鳴くといふか謡うといふかネ。橘曙覧の歌ァ紹介してくれておりやすのサ。読んでみねへ。いゝぜェ。

  とくとくとたりくる酒のなりひさごうれしき音をさするものかな

  ナ、いゝだろう。酒ァこういふ風に味わいてへものさネ。一生はいっぺんしかねへものネ。

写真 骨董玉手箱 割り瓢

2007年7月 6日 (金)

贋七夕必殺優男(にせたなばたひっさつわかしゅう)

 ときはいまあまがしたなる暦とは、言えへば誰でもお手にする、海を渡ってはるばると、丸い地球の真はんてへ(反対)、春夏秋冬区別も怪しき伊太利ハ、羅馬(ローマ)法王業列互利(グレゴリオス)がお決めになった紅毛暦。あっしら日出ずる国の町人風情たァ縁も所縁もござんせんが、なんの祟りか世界ハ一つとご統一。西洋\/で夜も日も明けぬ鹿鳴館、その楽隊が日毎夜毎に囃し立て、舞いや踊れやの狂い咲き。すっかり開化に載せられて、気がつきャ季節は大ずれの勘違い、なんの役にも立ちそもなし、そんな間抜け暦に取り込まれ、いまぢァそいつが大手振っての通り相場。七夕祭は七ト七と員数合せで丸飲み丸暗記、その指すところの意味もなし。とんだお笑い大まじめ。手習指南所跡形もなく今ぢャお上のお墨付き。小学校とやらが教える七夕も、検討ちげへの新暦7月7日。
 なんでこの日に天ノ川、消えて織り星彦星が出会えるもんなら、やってみな。滔々と空を横切る天ノ川。空が晴れても川消えぬ。粋な竹屋の渡しが天にあるならバ、川の流れがあったとしても愛し女郎と若旦(わかだん)の中を取り持つ計らいも、あろうものだがあいにくと、相手は竿ォ三本つないでも届かぬ天の上。西洋毛唐にお待ちを願い、天保暦を引き出して、埃はたいて調べたならば、秋の文月(七月)七日(土)が本物の七夕の宵。今の暦で言ふならば、西洋暦の8月18日(土)がその日。その日迎えりャ昇る月影皓々と、天ノ川の星の光消し、誰遠慮することもなく彦星織り星手に手をとって、年に一度の逢瀬の夜。
 そのめでゝえ夜をとッ違えは承知の上か、西洋暦の7月7日(土)ハ夜五ツ半(夏至時点今時間9時)、テレビ朝日の放送で、待ってましたの『必殺仕事人』。藤田まことが久しい姿見せてくれるが、安堵もの。東山の若衆や他にも若衆しばや(芝居)とまがうばかの若香盤。どんな梅庵が御目文字か。こいつァひとつ腰据えて、一刻しばやを、とくと拝見つかまつりやしょうかねェ。

先にフジテレビで一刻仕立てで流した仕掛人、あいつァ房楊枝づくり職人の彦さんを、演じたお役者が月代剃ッての熱演と画面の整理切り取り、切り返し、色使いに惚れ々々いたしやしたが、こんどの見所はどこにある。筋か役者か、江戸弁台詞の役作り、時代考証、道具立てに衣装、髪形結い分け方、小物履物、障子の桟、蛇の目か笠か、手拭か、見所満載、上手下手を乗り越えて隅々まで楽しめる、そんな仕上げが待ち遠しい今度の7日の夜でございやす。

2007年7月 3日 (火)

見世終惜別白雪(みせじまひなごりのしらゆき)

 銀座三丁目、横丁にお店(たな)を構えてゐた利久庵、そいつが近比(頃)久しい暖簾(のうれん)を下ろしたと聞きやした。ありきたりの言ひ方だが、一つの灯が消えたように淋しいゼ、あっしァ。
 思へば、最後となったンが丁度ひとゝせほどめえのこと。ありァ普段の日の昼下がり、客足の遠のいた比を見計らい、暖簾をくゞったは八ツ時分。狙いたがはず見世ン中ァ、ついさき客の波が引いた気配、若女将からお運び、釜場まで、一仕事終わった跡(後)の鳥渡(ちょいと)気だるい気配が漂っておりやした。
 がらんと空いた見世ン中、こちとらたった独りの客ぢャもの、目障りなとこ占めたンぢァ、もしも跡からお出でましの、お客がありァ申しわけねへ。まして着流し、いまどき堅気ばなれの風体格好。そのうえお天道さまァまだ天窓(あたま。頭)の上のこの時刻、盃傾けよふッて魂胆の不心得。階段下の壁と柱にはさまれた窮屈隅ッこ一席見つけ、躰傾け腰ィ落ち着ける。
 品書き繰りァ酒は銘酒、菊正宗。喜「ぬる燗で。ト指ィ一本突きい出し、蕎麦屋へえりァ莫迦の一つ覚えの誂えし、喜「焼海苔ァありやしたかい。若女将「ございませんので。お肴でしたら板わさハいかゞデ。喜「オゥ、そいつを頼ンますヨ。
 独酌でぐい呑み傾けておりやすト独りふらりと入って来たは、歳の比なら三十六、七。いまの時花(はやり)通言(つうげん)の、キャリア・ガールッてお姐さん。お酒ッと若女将へ一声投げ、見世の真ン中洋卓並べた嶋の端、椅子に着くなりすぐに開くは懐電話。電子の文(ふみ)に見入ッてござる。届いた酒を無言で舐め、目ァ携帯から離さねへ。世馴れたもんでござんすねェ。姐さんすっかり蕎麦屋の振舞い板についておいでトきたヨ。こうありてへもんサ、江戸ッ子ならネ。
 板わさ相手にほどよく呑んだ比、男(をとこ)女(をんな)取り混ぜて次々二人三人。これまた馴れた様子で、中の嶋へそれぞれ席を取り、思ひ\/に誂える。丁度小腹の空く時分、こんな景色ハゑど(江戸)のもの。飯の代わりに蕎麦喰ふなぞ野暮のこと。ちょいと手繰って腹の虫、軽く抑えてまた仕事。昔から言ふぢャござんせんかい、小屋が重くちャ仕事ができねへッてネ。大飯食らいハ小莫迦にされた。その心得でふんわり盛りつけた盛、蒸籠。あっしもこゝらで盃置いて、喜「姐さん、せいろいちめへ。さらしなも逃げ出す利久庵の贅沢蕎麦、雪より白く目ェ紛う、その名も名代の御膳蕎麦。こいつを手繰って〆(しめ)といたしやしょう。
 白く細く、そいでいて腰がある。こいだけの蕎麦ァそんぢョそこらにャ鳥渡(ちょいと)ない。これぞ江戸の町ッ子の蕎麦ヨ。そいつが手繰れなくなったとハ侘しいじでえになりやした。
 あっしァ銀座の一丁目で勤め人のふりしておりやした十五年の間、蕎麦ッて言やァこの三丁目裏の利久庵。暖簾下ろしたト咄ィ聞いたそのときァ、想いの人と別れをしたような心持ちになりやしたのサ。いまゝで人との別れはいくつもしたが、こんどはしんみり辛いもの。これを歳ィとったッて言ふンでやしょうかねェ。
 せめてものなぐさめハ日本橋のお見世が残っていなさること。あっちの見世に馴染みャあねへが、足ィ延ばして俤(おもかげ)忍ぶのも、贔屓の努め。待ってゝおくなさいヨ。御膳蕎麦さんヨ。

附(つけた)り
 去年の七月、この見世のことォ書いておりやす。供養になりやすんで、モいっぺん読んでくださりァありがてへト思っておりやす。
2006年07月23日『天紛花蕎麦寄道(ひかりとまがうぎんざのそばのよりみち)』

https://app.f.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=3400402&blog_id=131923

« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »

最近のトラックバック

2017年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31