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2006年10月27日 (金)

師匠ト呼ばれ

きのふ(昨日)の昼下がり、浅草寺で手ェ合わせた跡(後)、木馬館から浅草演芸ホールへ向かってぶらついておりやすと、向うから自転車にまたがったおっさんが鼻唄まじりでやってきやして、すれ違いざまに、小声で師匠ト呼びかけやす。

あっしァいつものでんで着流しで歩いておりやしたし、寄席が近いから、おっさん勘違いしやがったナって振り返りやすト向うも自転車走らせたまゝ振り返ってニヤリとしやした。からかわれたネ。こういふところがお江戸のよさだねェ。見ず知らずのお方とちょいとしたふれあいがある。赤の他人さまと洒落が通じるようにならなきャ都会のよさァ味わへねへ。これも江戸しぐさの心意気ッてことかネ。

大昔、あっしがまだ若造だッたことのことヨ。向うからカラコロ木のサンダルで小走りに来た若い姐さんが、すれ違いざまに、おにいさんトあっしの腕をポンと叩いて行ったことがありやす。アッと思って振り返ると、その姐さんはそのまンま走り去って行ったネ。だから玄人さんぢャねへ。地女(しろうと)の春のきまぐれヨ。 <br />その軽く叩かれだ腕の感触が四十年以上たったいまも、あっしの腕にァしっかり残っておりやす。

他愛もねへが、人様とのちょいとしたふれあいが無性に嬉しいもんぢャねへですかい。

2006年10月22日 (日)

思い出しムカッ腹『知頭役者鰻丼咄(しつたかぶりやくしゃのうなどんばなし)』

 この秋に終わったテレビの料理番組のことだが、あるときィそこに面ァ売れたある役者が出たと思ひねへ。そいつァ二種類の料理競わせて、どっちがいゝッて番組なんだが、そこでその役者がこう言ったのヨ。蒲焼ァ丼が実正(ほんと)だッてネ。コウ(※1)ちょいと待っておくねへダ。聞いた風抜かすンぢャねへゼ。
 鰻ァ江戸ぢァ初めッ比ァ道端で焼いて売っておりやした。これェ辻売りと言ひやす。見世(店)ェ張るようになったんハ天明(※2)の比と聞いておりやして、こうした鰻ァ蒲焼で、皿に載せて出していたようでやすゼ。
 文化(※3)の御代になって、堺町の芝居(しばや)の金主で大久保今助ッて男がおりやして、こいつが滅法界鰻の好きな旦那なんだが、忙しくって喰いに行く間がねへ。さりとて取り寄せていたンぢャせっかくの蒲焼が焼き冷ましになっちまう。蒲焼ァ熱々が身上でやすからネ。
 そこで、発明(※4)な男だから、大きな丼に炊きたて熱々の飯を盛り、そいつゥ鰻や(※5)へ持たせて蒲焼をのせて持ち帰らせた。これが鰻丼の始まりだって物の本(※6)にァ書いてある。
 だが、この鰻丼、こいつゥ喰う客は、鰻やぢャ小馬鹿にされて嫌われていた。明治になってさえも、鰻丼誂(あつら)えるト座敷ァ上がらせてもらえなかった。鰻焼いてる板場の隅で喰わせられたそうでやすゼ。そんなんが、実正(ほんと)のもんかねへ。あっしァ眉に唾ァつけやすゼ。
 コウお役者さんよォ、いろ\/ご存じでおっしゃッてるンですかい、とお聞きしてへヨ、あっしァ。知ったかぶりで天下の電波でのたまわれちャ困りもんヨ。
 その上こうも言ったネ。丼ッてのハいったん喰い出したら終わるまで口ィ放すもんぢャねへだト。なにィ言ひやがンでへ。手めへッちァそんな柄のわりい(悪い)喰い方なさってごぜろうが、それが真ッとうな喰い方だなんて思われちァこちとら江戸ッ子ァ大迷惑ヨ。
 そういふ喰い方、なんてェか知ってるカ。下卑(げび)ルッて言ふンだ。そいで、そうした奴(やっこ)を下卑蔵(げびぞう)ッてへのヨ。手めへのことヨ。よッく覚えておきァがれッてンだ。ざまァみやがれ。とんちきメ。

【附(つけた)り】
(※1)コウ=現代の呼びかけの「オイ」を江戸の文化文政の頃は、こう言った。
(※2)天明=西暦1781~1788。
(※3)文化=西暦1804~1817。
(※4)発明=頭がよい、利口、の意。
(※5)鰻や=現代では、店の「や」は「屋」の漢字で表記するが、江戸の文献では仮名表記のものが多く見られる。
(※6)物の本=鳶魚江戸文庫5 三田村鳶魚著 朝倉治彦編『娯楽の江戸 江戸の食生活』中公文庫。

2006年10月15日 (日)

大尽食宴炊込深川飯(おほごちそうたきこみふかゞはめし)

 山ン中で息ィ詰めて日ィ送ってるせいか、突如おゑど(江戸)の虫が騒ぎだし、なんとかそいつゥ黙らせなくちゃなんねへ仕儀になることがある。ト言っても、すぐに弁天山美家古鮨だの並木の藪だのト出張(でば)るわけにもいかねへ甲斐性なし。そんなよんどころねへ仕儀ンときゃァ手っとり早く騙せるンが深川飯ヨ。
 こないだハぶッ掛けの深川飯ィつくって喰い、その段取りァ、愚稿『九尺二間深川飯(わひすまひはなのゆふめし)』に書いたからよしとして、けふ(今日)ハ浅蜊炊込みの深川飯と洒落よふッて寸法ダ。
 深川飯とくらァ、土地の漁師たちがまどろッこしくて飯だ味噌汁だなんて別々の椀で喰っちァいられねへッてんで、目の前の浜で採ッて来た浅蜊でつくった味噌汁ゥ丼飯にぶっかけて喰ったがものゝ始まりと聞いておりやす。
 さるお方が電子網(ネット)で、割烹みや古(※1)を写真入りでのご案内下。そいつゥ拝見いたしやすと、そこンちゞャ浅蜊の炊込飯を深川飯と呼んでおいでだ。あっしァぶっかけを深川飯と思っておりやしたが、世の中そんな簡単なもんぢゃねへと知りやした。デけふのことトなったッて訳でござんす。
  段取りとしちゃアまず米ェ研いで笊へあげ、水を切っておきやす。
  次ァ浅蜊だァ。こいつが、便利な世の中になったもんで、海の水に浸かったまゝの浅蜊が山の超越商人(スーバー)でも手にへえりやす。そいつゥ鍋に入れ、かぶるほどの玉酒(※2)の中で軽く煮るッてへと、野郎熱い\/ッてんで、すぐにへたばって殻ァ開けやしょう。そしたらすぐに火から下ろし、殻から身ィ外しやす。
  鍋の中に残っている浅蜊の出汁、こいつが旨さの元だから、これをすてちァなんねへ。これを研いだ米へ水代わりに入れる。そこへ剥き身にした浅蜊ィ放り込みやしょう。次に、ぶっかけなら長葱だが、炊込み飯に葱ァ合いそうもねへンで、あっしァでへこ(大根)の繊切りを投げ込みやした。そしておいて、濃口醤油で色と塩味と香りづけに鳥渡(ちょっと)入れ、跡(後)ァ炊くだけの簡単さ。
  飯が段々炊けてくるッてへと、いゝ香りだヨ。もう腹が鳴って仕方がねへ。お江戸恋しさもどこへやら。頭ン中は飯のことばっかりヨ。
  恋しさとひもじさを比ぶれば、恥ずかしながらひもじさが先ッてネ。
  サテ炊きあがれバ跡は茶碗によそって喰うばかりだが、そこで割烹みや古のご真影で仕入れた細工をちょいと。青海苔ィたっぷり振って、箸ィ取りやした。
  その香りのいゝこと。板海苔たァひと香りもふた香りも違いやす。青海苔ァの香りァちょいと蓮っ葉でやすが、上等ぶらねへそれが浅蜊の深川にァ肌が合う。浅蜊の香りァ少し癖のあるもんでやすが、青海苔のその鳥渡(ちょっと)くだけた香りがそいつゥ隠して旨さの方盛り立てゝくんなさる。
  浅蜊の旨さ、玉酒と醤油の風味、だへこの歯触り、言ふこたァねへネ。こりァお大尽も知らねへ舌の贅沢ヨ。ありがてへネ。

【附(つけた)り】
(※1)割烹みや古。電話03-3633-0385 東京メトロ新宿線森下駅から徒歩5分 http://www.bea.hi-ho.ne.jp/a-ishiuchi/gourmet/10miyako/miyako.htm
(※2)玉酒。水と酒を合わせたもの。玉は玉川(多摩川)の水の意で、東京の料理用語。魚の煮つけや甘露煮、鮎の煮浸しなどに使う。(柳原敏雄・柳原一成共著『懐石近茶流』主婦の友社) 江戸時代、現多摩川を玉川と表記した。

2006年10月 7日 (土)

俄雨情柳橋海鰻佃煮(にわかあめなさけのやなぎばしあなごつくだに)[※1]

 その日ァ秋とは言へ、閏文月(うるうふづき。七月[※2])の十五日(新暦9月7日)、蒸すような陽気でやした。形(なり)ハ先だって息子の嫁が仕立て上がりを届けてくれた越後上布の白絣(しろがすり)。いま仕付糸ゥ抜きやしたッてばかりのまっさら(真ッ新)の仕立ておろしヨ。帯ァ息子のお下がり。黒地に群青の糸を織り込んだ紬の角帯。長着も帯も息子夫婦がかり。これぞ隠居冥利に尽きるッてものかもしれねへネ。
 足元ァいつもの白足袋に下駄。桐の台に朴(ほお)の薄歯を仕込み、鼻緒は白地に紺の縞。こいつが白足袋に映えて、涼し気でやしょうッてもんだ。
 きょうび(今日々)下駄と言やァ台と歯がひとッつながりのゥ指しやすが、どうやら昔ァそいつァ駒下駄と呼んだようでやすナ。駒とハ馬。馬はどうてへ(胴体)と足が一体になっておりやす。胴に足ィ接ぎ木した馬ァおりやせん。そいでいちぼく(一木)から台と歯をつなげて切り出した下駄をわざ\/そう呼んだぢゃねえかと、あっしァ思っておりやす。駒下駄ッてもンは、そのさらに昔ァ馬下駄(※3)と呼んだそうぢゃねへですかい。ほんに喜多村の大せんだっつあんのお書きになられた嬉遊笑覧(※4)ッてご本を繰りやすと、今、駒げたといふもの、昔は馬げたといへりト書いてござりやすナ。
 咄ァ横町(よこちょ)ばいり(※5)いたしやすが、その昔の下駄の歯は、台に臍(ほぞ[※6])二つ切ってあって、そこィ歯の根を角(つの)にして差し込んであったそうでやすナ。歯が台を突き抜いていたッてことだそうで。いまァそんな芸当はしてなくて、台の裏に溝ゥ彫ってあって、そこへ横から歯ァ差し込んで止めてあるッて細工ですワ。そんなこんなデ、あっしァ昔ァ普通に下駄ッて言やァ差歯が通り相場だったンぢゃねへかとネ。
 マそいつゥ履いて出て来たッてわけだ。雪駄でお出ましにならなかったンは空観る知恵のあるとこヨ。利休の大師匠(おほしゝゃう)が、降ラヌトモ笠ノ用意(※7)とおっしゃっておられやす。雨の要心ッてわけダ。
 浅草へ出たときァ、観音さんにァ通りすがりの会釈でご勘弁願っても、ここはお賽銭あげずに済ますわけにゆかねへのが、あっしとあの世へ行ったぢい(祖父)さんの守り神、境内の辰巳の角、時の鐘(※8)の小山に奉られた弁天さま。けふ(今日)もご縁を願って五百円の大偽南鐐(なんりょう[※9])放り込み、柏手打ってド天窓(あたま。頭)ァ下げてめへりやした。
 広小路(※10)渡り、江戸は東京となってつい近比(頃)つくられた都営浅草線の土竜(もぐらもち)の電車へもぐりこんだンは、まだ午(うま)の刻(正午)を半時過ぎたばかり(午後一時)。この電車の駅ァ年寄やおみ足の不自由なお方のことを考えておりやすね。昇降機(エレベーター)でぢべた(地面)から地中の改札まで上がり下り出来る機関(からくり)にしてありやす。あっしァいまァ去る事十四年前、危篤の大病患いやしたとァ杖が頼りのしがねへ躰でやしたが、いまぢャ足腰も達者になって化粧杖(けしゃうづゑ。※11)に過ぎやせぬが、それでも堂々の年寄なんでやっぱりなげえ(長い)階段とお化け(怪談の洒落)が大(だい)の苦手。そいで、この仕掛けが嬉しいッてわけだ。
 浅草からもぐって次が蔵前駅。こゝァゑど(江戸)の比なら、浅草御蔵で、大川端に添って八本の堀が櫛の歯のよふに並び、札差の蔵(※12)が軒ィ連ねていたもんヨ。中程にァ首尾の松(※13)、上(かみ)ィ上がればその浅草御蔵の際に、御厩川岸之渡(おんまやがしのわたし)があったはず。今ァその上手(かみて)に厩橋(うまやばし)が懸かり、蔵前と本所を結んでおりやす。橋の懸かっているその場所は、昔ァ蔵前ァ黒船町、本所は阿部伊予守さまのお屋敷のあった処(※14)でやすネ。次の駅が浅草橋。そこで下車するトちょうど案配よく目の前に昇降機の扉が空いてござった。おっと待っておくんなせへト片手を上げて駆け込む。扉ァ開けて待っていてくれたハ紅毛人のとっつあん。あっしの形ィ観(み)「カッコイィ」と片言でおほめの詞(ことば)投げてくださいやした。けっこう外人さんは着物姿ァお好きなようで。浅草寺界隈を歩いていて、なんども記念写真を撮られたことがごぜゑやす。そのンち毛色の変わった着流しのお人が町ィぶらつくようになるやもしれやせんゼ。
 地の表へ出るトそこが江戸通り。この呼び名はいまのもの。江戸の昔ァ御蔵前の広小路が並の太さに戻った処で瓦丁(かはらちゃう。町)二丁メ(目)。南ィ神田川へ向かやァ、すぐに芳町(よしちゃう)。ト言ったッて陰間茶屋(※15)で名ァ馳せたあの芳町ハ日本橋。こゝは浅草芳町だ。日本橋芳町は今ァ人形町三丁目にへえったよふでやすから、面影ァありやせんでしょう。
 駅からちょいと歩きァすぐに橋になる。こいつが浅草橋。江戸の市中を西から東へ貫き、なかほどぢゃ千代田のお城の外堀となって流れる江戸川の下流が、この神田川ヨ。橋ィ渡った南にャ浅草御門があったはずだから、こっから北が浅草ッてことになる。橋の上に立ってみりァ、下手すぐに見えるが柳橋。両の岸にァ屋根船だの釣舟がもやってある。点々と河岸に船宿の番小屋がせりだしている。そんじょそこらぢャ見らンねへ景色ヨ。あいにく上げ潮どきか、潮の香(か)に混ざってわりい(悪い)匂いが漂っていやがる。ご維新からこっち、なにかと言やァあっちこっちの山出しが大挙してお江戸へ押しかけ、遠慮会釈もなしに住みやがるから、川と言ふ川が汚れてゞっけえどぶみてへになっちまったわサ。そいでも前に比べりゃいゝとハ聞くが、清流だったはずの神田川も隅田の大川もまだ\/形無しヨ。
 その神田川に添って一丁(※16)ほど下りァお目当ての小松屋(※17)。柳橋の佃煮屋と言ふのが売り言葉(きゃちふれーず)だが、実正(ほんと)にその袂に建っておりやす。その上、お誂え向きすぎるほど出来た画(ゑ)で、見世の角にァ比合いの背丈の柳の木が生えているッて寸法ヨ。こいつァまったく芝居(しばや)の書割ぐれへ決まっていやすゼ。
 木の段が与段(よだん。四段)、上がるとちょいとした板場になっていて、そこに机と腰掛けのお休み処。正面が硝子(ガラス)の飾り戸棚。自慢の佃煮が勢ぞろいで鎮座ましましておりやす。その間口ァおほよそ一間。右手は客の立つ板場ァ囲むように手前へ鍵の手に折れて、中ァ調理場。磨き込まれた硝子戸から、黒い扇風機が見えている。きっとこいつァ煮上がったばかりの佃煮ィのあら熱とるためのもんだろうが、感心したァハその手入れのよさ。羽根を覆う網に塵埃の一筋も見えねへ。喰いもん商売ハこの心がけがでえじ(大事)。こざっぱりァ江戸の心意気だゼ。あっしァこのひとッとこ見たゞけで、こゝンちのてへしょう(大将)の性根が気に入った。これで売りもんの佃煮のまずかろうはずァねへ。
 飾り棚の中にァざっと十品(としな)ほどもの江戸前の佃煮が並ぶ。サテどれにするか。手むきあさり、一と口あなご、しらす山椒、生あみ、小えび、伽羅蕗、昆ン布、アヽ目が迷う。
 腹づもりぢゃ名代の手剥き浅蜊か、穴子のどっちか。財布と相談づくはもとよりの苦しい身(※18)だが、時と場合によっちァ清水の舞台から飛び下りたつもりで一世一代両方一挙の度胸もねへぢゃなしと腹をくくって来るこたァ来たが、いざ目の前に並ぶと目移りしていけねへ。あっしァ残念なことに覚えァねへが、きっと籬(まがき)の前で思案した通人の気持たァこうしたもんだろうゼ。そん悩みィ客にさせちァいけねへと、一度馴染みとなったらば、外の花魁と浮気をしちァなんねへ仕来りつくったンは吉原の知恵。ト佃煮屋の前で中(※19)の講釈たれてちャ世話ァねへが、それほど目移りする出来ばえッてことヨ。
 味見ィし決めてへものと思うが、あんまりきれいに並んでゐる上に、真ッちょうめん(正面)に四代目が愛想よく微笑みたヽえて待ってござるンで、つい言いだしかね、普段の勇み気分もどこへやら。浅蜊か穴子か、二つに一つとなりァ、やっぱり穴子にほの字。浅蜊ァ情けねへことに近比ァ歯ァわりい(わるい)しなんて弱音ェはいてあきらめて、滅法界気弱になって穴子ォお頼みいたしやすト消え入る注文(※20)。
 量(はか)って詰めてもらってるトさッと風が変り、俄雨(にわかあめ)。駅から下駄の歯鳴らしてせっせと歩き、江戸湾の潮の香(か)含んだどっしり湿った空気を受けたせいか、この雨でいっぺんに汗が湧く。懐から藍染めの芥子(けし)の実散らしのてぬぐひィ取り出し拭う。そのさまァ見かねたか、四代目ガ冷たいものでもいかゞですかいト麦茶を差し出してくれる心遣い。さっぱりした麦の芳ばしい香りの清々しさ。一気に飲み干し、ありがたふと義山(ぎゃまん)の器返すと、もう一杯いかゞト訊いてくれる。こいつァ願ったり、お頼み申しやすデ駆けつけ二杯ごち(ご馳走)になりやした。
 サテお楽しみハ夜ヨ。飯ィ炊き、湯ゥ沸かし、急須に煎茶ァ用意。飯の炊きあがる間が待ち遠しい。
 炊きあがったら、飯ィ蒸らす間に、山葵(わさび)ィ下ろしやす。比合いはかり、飯ィ盛っておいて、急須に湯ゥ注ぐ。普段の茶なら湯冷ましで少しぬるくするが定法だが、茶漬けにャ熱い湯で苦味ィ出した方が旨かろうッて目論見ヨ。飯の上に穴子佃煮並べ上に山葵ィ盛り、ゆる\/と茶を注ぐ。その上からぶゞあられェぱら\/蒔(ま)く。
 卓台の茶碗をそっと眺める。思わずにんまり。喰う前に頬がほころんでしまう。へゝゝゝェ。これがほくそ笑んむッてやつヨ。
 まずハひと口。茶を啜る、次にひと口、飯をすくって喰う。もったいなくッて御本尊の穴子さまへなか\/箸ィつけれねへ。やっと三口目で、端ッこを戴く。まずハ醤油の辛さ、次にィ味醂と砂糖のこくのある甘さ、噛みしめた奥から、しっぽりした穴子の旨味と風味。こいつァたまんねへ、旨味の奥がえれェふけえ(深い)。餓鬼の味ぢァねへゼ、年増の位ヨ。今出来の駆け出しの職人や見世ぢャこの奥行きァ出やしねへだろう。こいつァいゝもん味わ合わせていたゞきやした小松屋さん、これからもずっと代を重ねておくんなせへ、江戸ッ子ァずっとあんたの贔屓(ひいき)だゼ。

【付け足り】
(※1)海鰻(あなご)。穴子のこと。和漢三才図絵-五一「阿名呉(アナゴ) 正字未詳 阿名古状似海鰻而色浅於海鰻」
(※2)閏文月(うるうふづき。七月)。旧暦(太陰太陽暦、天保暦)によると、今年は閏月が七月に入り、七月が二度繰り返される。
(※3)馬下駄。『俳諧懐子(はいかいふところご)』八、「とひとはゝるや長路の内、庭の雪に行(ゆく)馬げたの跡見えて 重共」(喜遊笑覧[※4項参照])
(※4)嬉遊笑覧。喜多村均(草冠)庭著。同人は安政三年没の考証随筆家。同書は江戸百科事典と称されている。現在、岩波文庫から全五冊中四冊発刊中。
(※5)横町ばいり。横っちょへ入る、こと。江戸学の嚆矢と呼ばれる三田村鳶魚が使った江戸語。
(※6)臍(ほぞ)。穴の意。
(※7)降ラヌトモ笠ノ用意。つねに要心をすることを戒めた千利休の言葉。
(※8)時の鐘。江戸時代、鐘を撞いて時刻を知らせた。その鐘が、浅草は浅草寺境内の辰巳(東南)の外れの弁天山にあり、今も現存する。
(※9)南鐐(なんりょう)。長方形の貨幣、二朱銀の別称。二枚で一分(ぶ)、八枚で一両。表面に「以南鐐八片 換小判一両」と刻してある。鐐とは、白銀(しろがね。銀)の美しいもの、の意。
(※10)広小路。火除地として拡幅した道。他に、上野広小路、両国広小路などが有名。
(※11)化粧杖(けしゃうづゑ)。実用ではなく洒落で突く杖。『永代蔵 四』「あたら世をうか\/と送り、二十前後より無易の竹杖・置頭巾、長柄の傘さしかけさせ、世上かまわず潜上男」(中略)かくもたする杖を、余情杖(よせいづえ)とも化粧杖ともいふ。 喜遊笑覧(一)。
(※12)札差。旗本・御家人の禄は幕府から籾米で支払われたが、その彼らに代わって蔵米の受取、販売を行い、手数料を受け取った商人。蔵米受取手形に名前を書き、それを割竹に挟んで蔵役所の藁づとに刺したところから札差の呼び名となった。
(※13)首尾の松。大川(隅田川)を猪牙舟で往来する吉原通いの男たちが、廓での首尾を想うところから、呼ばれるようになった松。
(※14)昔ァ蔵前ァ黒船町、本所は阿部伊予守さまのお屋敷のあった処。安政六年(1859)の江戸切絵図による。
(※15)陰間茶屋。男色遊びをさせた茶屋。天明末までは、芳町、木挽町、湯島天神、麹町天神、塗師町代地、神田花房町、芝神明町の七ヶ所にあったが、化政期には芳町、湯島天神、八丁堀だけになった。
(※16)一丁。六〇間、約109m。
(※17)小松屋。http://www.tsukudani.net/shop/index.html 東京都台東区柳橋1-2-1 電話03-3851-2783
(※18)苦しい身。貧乏、の意。
(※19)中(なか)。吉原のこと。廓の中、の略。吉原は江戸の北にあったので、北国(ほっこく)、北州(ほくしゅう)、北里(ほくり)などとも呼ばれた。
(※20)一と口あなご佃煮(七〇グラム)一八九〇円(税込み)。手剥きあさり佃煮(七〇グラム)一六八〇円(税込み)。

2006年10月 3日 (火)

今夜も辰巳の深川飯

 けふ(今日)の夕飯ァなにゝすべエかと、思案に困ったときの浅蜊頼み。やっぱ深川飯がいっち(一番)いゝ。
 そんで、また浅蜊の剥身つくり、葱刻んで、昆布出汁とって、味噌溶き込んで仕上げ、炊きたて飯にぶっかけて一丁上がりヨ。菜ハ厚揚げの煮付けダ。昆布とかつぶし(鰹節)で出汁とって、醤油とざらめで味ィつくり、奴に切った厚揚げ煮込んで、仕上げに葛ゥ引いてとろみつけやした。ちょいと奢ッてゝへ(鯛)の刺身数切れ付け足しやした。
 出汁ィとったかつぶし、捨てちァもってへねェんで、醤油と味醂で炒り、佃煮にしやした。こついが滅法界うめへ。深川飯なしでも飯ィ喰えるほどダ。
 夕飯ァ、深川飯が余計だったンか、かつぶしの佃煮が余計だったのかわかんなんなっちまったが、舌も腹も大満足サ。

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