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自己紹介文

 昭和の御代も大戦の真っ只中、お江戸も場末と鼻の先であしらわれた麻布笄町(西麻布)でおぎぁと生まれ、物心ついたはド田舎とさげすまれる荻窪は弁天沼の畔。澄んだ湧き水呑んで数年過ごし、さてそこから始まる落ちぶれ旅の行き先ァ、川向こうと江戸っ子が下に見た、押上村は請地の片田舎。元服過ぎてまた\/落ちたハ、練馬のド田舎。もう江戸っ子は名乗れハしねへと、あきらめきった六十路の半ば、こいつぁうか\/してられねへ。残る命ァ跡(後)わずか、一念発起の最後の踏ん張り、見ンごと実正(ほんと)の江戸っ子となり、あの世の旅を飾りてえもの。そんな覚悟で命ィ張った江戸っ子修行。この撫魯愚(ぶろぐ)の上で、男一匹喜三二の性根見届けのほど、御願い奉りやす。

 狂名は北里(きたり)。余所者を来たりもんと呼ぶ処にいまァ住んでおりやすことと、また花のお江戸ぢァあの吉原を北里(ほくり)とも洒落たに因みやした。
 名の喜三二(きさんじ)ハ、気散じの心意気と、あっしの祖父が三治郎。あっしが二男。それを綴る意もかけておりやす。モひとつ、山東京伝『江戸生艶気樺焼(ゑどむまれうはきのかばやき)』に出てくる近所の道楽息子北里喜之介(きたりきのすけ)にあやかりてえと御名(おんな)ちょいの拝借と洒落たわけでやすヨ。
ところがだァ、名乗った跡で判ったドジだが、江戸幕末に朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)ッてへお方がいらっしゃッたこと。こいつァごめんなすッてダ。マ勘弁してくんねェ。あの世で追いついたら、そのときァ天窓(あたま)下げて、詫びィいれやす。それまぢァ浮世で、御名借用。おねげへいたしやす。