江戸色町一寸話(ゑどいろまちいつすんばなし) 其の七 㐂三二
根津月乃屋の巻
大工与五郎襟にお店(たな)の屋号を染め抜いた仕立おろしの藍もあざやかな半被(はつぴ)の裾をひるがえして根津の町人町の路地へ入る。手には折詰を二ツぶらさげ口三味線のごきげん。柿染のすみに小さく月乃屋と染め抜いたのうれん(暖簾)をくゞり格子戸をからからト明けこんばんはと声をかけ上がり框(かまち)の障子を明け「コウお吉ァ空いてるかひ 長火鉢の向うでこよりで喜世留(きせる)のそうじをしてゐた女将「オヤ与五さまおでなさいましお吉ァついさッきお茶ァのみにおりてきて与五さまァ来てくれないかねえッて噂してたとのヨあれはおまさまに首ッたけだよ 与五「よくいふゼその手は桑名よホレみやげだト折詰を一ツおかみにわたし 「ごと(亭)さんと一緒に喰ッてくんねえ 女将「オヤありがた山おみやァなんでございやす 与五「かばやきヨ 女将「マアなんて豪勢な御ご馳走ありがたふございやすサヽ御二階ゑあがつてやつてくださいなお吉がおいでを首ィ見越し入道みてえに長くしとりやすよ 与五「熱いとこつけてくんな 女将「あいよ三本もつけようかネ 与五「そんな呑んだらどろッぺい(酔どれ)にならァな 女将「あいあいオホヽ 与五いきよいよく階段を上がり奥の慣れた部屋の障子を「コウ与五だへえるぜ 吉「あれェ与五さん来てくれたンだァ待つてたンだよゥうれしいねえさあさあ半被をお脱ぎなあれまァ真ッさらな半被だよ手がきれそうなくらひ火熨斗がきいてるねえ 与五「仕立おろしヨ出入りの日本橋の大店(おほだな)のご隠居さまの離れの造作が仕上がつてヨそいでお旦那さまから祝にくだすつたのヨそのうえご隠居さまからはご祝儀をちようだいしてよト腹掛のどんぶりから小袋をひきだす 吉「おやまァおまさんけふは粋だねどんぶりン中にどんぶりいれてんだその布は洒落てるねえなんだい見たことなひよ 与五「さらさ(更紗)ッてンだそふで舶来だぜご隠居さまがこん中にお祝儀いれてくだすつたのヨそいでおめえにもお裾わけつてェわけよ トその更紗の銭入のどんぶりン中からおひねりを吉の手のひらへのせる 吉「まあまあわちきにまでかひうれしいねえ与五さんはァじつ(誠)があるから好きさねえトておひねりをひらきその手を行灯にちかづけ「ヒェッと声をあげる 吉「これはおまさん一朱(銀)ぢやァなひかひこんなにいたゞいていひのかえこんどご隠居さまンとこ往つたらわちきがお礼をもふしていたと伝えておくれなや 与五「あはゝばかやろふ岡場所の馴染がッてのかえそいでよ一緒に喰おうとおもつてかばやきかつてきたンだと折詰をだす 吉「うわッこれはおごちそふこんやァ盆と正月だよねえお銚子あつらえていひかねえ 与五「オウそいつァ一本熱いとこたのんであらあ 吉「あれ一本かひわちきにもおごつておくれよふ 与五「おめえも呑むかそいつァわるかつたいつもはおめえ呑まねえから気がまわンねえで帳場へたのみねえな 吉「アイといそいそと階下ゑたのんでくる 盆に銚子三本と皿をのせてもどりサア与五さんト折詰のかばやきをのせ与五の益子焼のぐい吞みに注ぎじぶんのにも注ぐそしてひといきに呑み干し「あァうれしいねえこふして与五さんとさし向ひ所帯もつたら毎晩こうだねえ 与五「おめえ勝手にきめるねえまだ引取るたァいつてねえゼ 吉「おまさんまた照れていゝンだよあたいはおまさンの胸の内はぜんぶわかつてるンだからサなんもいわなくてもいゝのらい年の春年が明けたら緋の襦袢ぬいで白木綿の腰巻に替えて嫁に往くからねそふおもつたゞで月のもンがとまッちまひそうだよふ 与五「とまッたンか 吉「そんなドジはしなひやねえわちきは玄人だよはらんだりしたら女良(じよろう)の恥お馴染さんにもお帳場のおかあさんにも申しわけがたゝないやねえいつもちやんとよく噛んだ紙ィつめとりやす与呉さんとこいつたらもふそんなことしないでいゝンだはれて素人になれるンだ 与五「おらァ悪酔ひすらァ 吉「おまさンやだねえまだ一本残つてンのにもふどろッぺき(泥酔したさま)だよ
挿絵 歌麿筆
扇子の本歌取り狂歌
蛤に 者(は)しを志(し)つ可(か)と 者さ萬(ま)れて 鴫たち可ねる 秋の夕くれ
本歌 西行山家集
心なき 身にもあはれは しられけり 鴫たつ沢の 秋の夕暮
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